13章目 ★2
 朝が近づいた。今日は一睡もしていなかった。
 
 準備は整っていた。いや、そもそも私の殺人に道具はいらなかった。ただ駅に行って、突き落とせばいい。

 大学は休むようだった。昼になってもベッドの上でぼぉっとしていた。

 思い出して心配になった。そういえば、私はこの体を支配しているわけではない。眠っている時にだけ人格を交代する事はできても、あちらの意識が覚めると私は問答無用に引っ込められた。
 
 しかし、私の人格は昔自由に出し入れが可能だった。気がつかぬうちに、自分とは違った人格が勝手に体を支配している。とカスミ君は前言っていた。もしかしたら今度も、いやそのチャンスだからこそ、主導権は自由に動かせるのかもしれない。



 夕方になり、普段ならば学校から帰ってくる時間帯にまでなった。

 ドアを開けた。病院に向かうと思っていた。しかし、違った。

 少し歩くと見知らぬ家があった。そこの郵便受けに直接昨日書いた手紙を入れた。この家が奈月さんの家なのだと思った。

 病院に向かった。樹木に手を付き、ベンチにまで行った。そこに男は座っていた。

「あぁ、来たかい。じゃ、行こうかね」

 私もカスミ君にならって、この素晴らしい景色を目に焼き付けておこうと思った。

 そうだ、私達はもう戻れない。明日には普通の暮らしはできないのだ。

 そこに映る太陽は、神々しい光を放ち、まるで私という邪悪な存在を消してしまいそうな勢いだった。よく見たら雲はどこにも見当たらない。快晴だった。




 歩き難い道だった。病院を俯瞰して、通り過ぎると、広い道に出た。少し歩くだけで駅が見えた。

「!」

 俯きながら涙を堪えている奈月さんが、駅の前で何かを待っているのが見える。恐らくカスミ君が大学に行ったものと思って、帰るのを待っているのだろう。その手には手紙が大事そうに握りしめられていた。

「………………」

「どうした? カスミ君」

 彼女からはこちらは見えていないようだった。

 カスミ君はまた病医に続く狭い道に引き戻すようにと言って、俊夫を引っ張った。

「ちょ、ちょっと何だっての?」

 動悸が激しい。カスミ君は緊張しているようだった。樹木に手を付いて、息を整え、胸を叩き自分を落ち着かせる。彼は全て自分でけりを付けようと思っているらしかった。

 しかし、カスミ君は何も手を加える必要はなかった。そうだった。殺すのは私の役目だった。私は、殺意だった。カスミ君の中に宿る殺意を、その抑えきれない殺意を一つの人格にまとめたものであった。

 故に、生まれた意味も把握できる。私は、誰かを……殺すために。いや、突き落とすために生まれてきた存在なのだ。それは、憎悪であり、殺意であり、排他的でもあった。

 私はカスミ君のために生まれてきた存在だった。しかしそれが排他的とはどういう意味だろうか。

 私のこの胸の中には、愛する者を穢された憎しみが宿っていく。それはこの男が生きている限りずっとだ。もしも私という存在がいなかったとして、カスミ君はその憎しみをどうぶつけて良かったのだろうか。精神的不安定という事もあり、もしや自殺というのもあるかもしれない。

 そして奈月さんを犯し、その罰を受けずに暮らすこの男を許す事などできはしない。そうだ、だからこそ殺すのだ。殺す事で、自殺要因となるものを排除し、また恨みも晴らせる。私という殺意の塊を生み出す事こそが、もっとも合理的に物事を進める術だった。

 しかし私は殺意だった。殺した後、その後私がこの体に宿り続ければ、やがてまた衝動を起こし、殺したい欲求を膨らませるだろう。だから排他的。役目を終えさえすれば、排除しなければならない、いわば廃棄物だ。

 私はカスミ君自身が生み出されたのだろうか。わからない。

 が、それでも殺意である私自身の宿命は決まっていて、そして結果、こうして殺す末路しか先にはないのだから、やっぱりこれは運命なのだと感じる。

 神は私に未来の映像を見せ、カスミ君を誘導させて、違う未来が訪れてくれるよう期待していたのかもしれない。だが、実際は殺人は止まらない。まだ起こってはいないが、もう私は、殺せ、殺せ。と内側に叫ぶ声に逆らう事はできない。今だって、この男を殺したい。凶器がないから生かしているだけだった。

 重要なのは、男を殺す事ではないのかもしれなかった。あの場所には誰がいただろうか。そうか、奈月さんがいた。奈月さんが私を殺し返すのだ。

 もしかしたら、奈月さんは私がいなかったら告白しなかったのではないかと、仮定する。告白どころか、セックスもしなかったのではないか。カスミ君は日曜だからと、遅くまで起きて、早くに起きられず、約束のデートをすっぽかす。そうすれば、ベンチに案内する事なく、二人の間が狭まる事はない。

 そう、二人の中が狭まる事で殺す瞬間、起きる奇跡とは、愛だった。

 あの手紙である。あの手紙にはカスミ君の本当の気持ちが書かれていた。あの手紙を読む事で、カスミ君を殺す事を留まるかもしれなかった。

 ならば私がこの男を殺す事は必然だったのだろう。誰かが罰を与えなくてはいけなかった。証拠なんて今更ない。警察が頼れないなら、殺すしかない。しかし、被害者でしかないカスミ君が殺されてしまうのは、憐れだ。神はそこに少しの情けをかけたのだと思う。

 全て想像でしかなかった。だけど、確証があった。私の妄想癖がこんなところで役に立つとは思わなかった。

「……くっ、……くそ。そんなのは、それって……、あんまりだろ」

 ? 突然の発言だった。誰に言っているのかわからなかった。

「ちくしょう。体が熱くなって、きて……くそ……」

 私の指先。足の付け根に、腕。体のほとんどの部位を掌握していく。不思議な感覚。そろそろ我慢の限界だよ。カスミ君。さぁ、いつものように寝ていればいいのさ。

「行きましょうか。俊夫さん」

「ちょっと、ったく、何なんだってのさ」

 体は動かない。僕は閉じ込められてしまったかのように、心の奥に幽閉された。

「そう、つまりは人格の交代。もう殺意が抑えられない。力のないあなたでは止める事なんて不可能」

 駅が近づく。

 彼女は何度も携帯を確認し、手紙を眺めるとちょっと嬉しそうに微笑んだ。

 顔を上げる。私を見ると、ぱっと顔を明るくして、こちらに近寄る。

「カスミ君、あのね――」

「ごめんね、奈月。今日は用事があるんだ」

「あっ」

 適当に定期をかざし、改札を抜ける。俊夫が、切符がないとごねる。何でもいいから買え。と命令した。

 どこに行くか、たずねられた。笑っちゃった。そこは電車に乗ってはたどり着けない場所で、電車にはねられて初めて行けるところだった。地獄だった。

 一番安い切符を買わせて、改札を抜ける。早足で抜けた。

 電車はこちら側はすぐに来ず、向かいのホームならば三分後だった。どうでもよかった。遠かろうが近かろうが、放り投げれば変わらない。

 ……何て、事を言うんだ。君は。

 私が煩い。カスミ君の声が胸にだけ響いた。

「奈月ちゃん、追いかけてくるよ。いいの?」

「あぁ、彼女には秘密だって言ってるじゃないですか。だから、今日は一緒に行動しないんですよ」

 奈月さんが階段を降りてくる。見つかってはいけなかった。少し離れれば人込みで見えなくなる。時間も丁度だ。

 ……本当は、君だって生きていたい。

「カスミ君はもう、二重人格じゃない。病院で完治した時から、あなたの病気は治ってるはずだった。私は本当はいらない存在だった」

 ……馬鹿な事を言うな。そんな事はない。君は殺す動機を作っていた。そして君が責任を負うというのならば、死ぬなんて言わずにきちんと僕と罰を受けるべきだ。君のやろうとしてるのはただの逃げる事だけ――。

「あぁ! もう、電車行っちゃった。カスミ君のせいだ! 次は……こっち側で五分後か」

 ……君だって、生きていたいはずだよ。じゃなければ僕の目から涙は流れない。

 初耳だった。そういえば、ぽたぽたと何かが落ちると思っていたら、それは涙だったらしい。

 ……奈月が好きなんでしょ? 僕と同じように。

「フフフ、フフフフフフフフフ」

「?」

 ……?

「違うよ。それは……違うって……」

 嗚咽でうまく話せなかった。私は神様からの宿命とこの二人の運命のために、死ぬ、べき……だけど、その甘えを口に出せるのだとしたら、やっぱり、ずっとこの胸の中で……居心地の良いカスミ君の中で生きていたかった。

「馬鹿ねぇ、それは私が、ずっと奈月さんが羨ましくて、諦めて。せめて奈月ちゃんと……。だから、本当はね、私もカスミ君の事がね、好き、なの……」

 もう、駄目だ。どうしようもない。早く早く。この男を突き落とさなければ、私は止まってしまう。胸の内から殺意の衝動が止まらぬうちに早く。

 腕をつかんだ。男は急な事で、驚いた。私は勢い良く彼を放り投げようとした。

「!」

 風は急速に私の髪をなで、間近で走りぬく機械は安定した音を奏でてゆっくりと動きを止めた。私は座り込むしかなかった。彼女の体があったから。奈月さんに抱きしめられたから。

「ごめん。もういいの、もういいから……。ごめんなさい」

「奈月……」

 終わった。体が言う事を聞かない。支配権が無くなっていく。私の役目は終わってしまったのだろう。後に残るのは虚無感だけだった。

「殺すのも死ぬのも、望んでやっちゃいけない。理性があるうちは。絶対に」

 私は負けたのだろうか。愛に。神はどこまでを見ていただろう。

 天にまします神様。これで良かったのでしょうか。私は生きていても。

 少しの罪悪感。しかし、それよりも大きいのは彼女のぬくもりを肌で感じる幸福感。

 頭を撫でられる。彼女は小さく諦めないから。と口にした。あとで謝れば良い。実は僕も好きだった。と。

 あたりに数人が集まりだし、私は見上げて人を顔を窺う。するとふいに気になる事があった。

 駅のホームには屋根があり、そこから覗く景色には、半分ほど鈍色をした雲が空を占める。よく見れば、大半の人間は傘を手に持っている。快晴はどこぞの風に吹き飛ばされたのだ。

 今宵は闇をも輝かせる漆黒の雨が降るだろう。
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匿名読者
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