11章目 ★2
 そして、また……暗闇が訪れる。

 電気を点けずに玄関を上がって、二階の階段までの通路を進む。この家の主人であるカスミ君自身が、寝る為にしか家に戻らない。

 無駄に広い部屋の数々。今は闇が物を孕み静寂を保っていても、光が宿れば無呼吸だった暴力の残骸達は、おぞましい悲鳴を主張する。窓からの僅かな光。だけど、聞こえは変わらず穏やかだった。

 しかし、物を投げ、壁を壊しガラスを割る。その光景に陰惨で、血みどろの映像が嫌でも想像できてしまうのだ。物達の痛い。痛いよ、と泣く声が聞こえてきそうだ。そこにカスミ君がどれだけの仕打ちを受けたか、知る事ができるのだった。

 目を背けて二階に上がる。自室にこもった。ベッドで膝を抱えて丸くなった。もしかしたら彼も、悲しかった過去を思い出しているのかもしれない。

「もう……誰も助けてくれない。誰も救ってくれない。父親も母親もいない。……奈月、しか……」

 顔をあげた。天井を見上げた。彼女を思い浮かべたのだと推測した。

「僕は奈月を……好きな、はず。だけど、くっ、どうして。……そう思うと、どうして! 体のいたるところが僕を苦しめる! 何なんだ、これ……。まるで自分の中の誰かが、僕が他の人と関わるのを嫌っているような」

 ……。この中に私とカスミ君以外の人間は存在しただろうか。いや、いるはずがなかった。カスミ君が私のせいだと言うのなら、きっと私のせいだ。私がカスミ君の邪魔をしているのだ。

「……何言ってんだ。僕は……。もう寝よう」

 そう言ってベッドに横になった。また風呂に入らなかった。気が付いた。そういえばこの男はあまり風呂に入らない。入っても週に三回ほどだった。自分の顔や、体を見たくないのか、風呂場に中にある小さな窓にさえ、目を背向けるようだった。そこまでして自分自身を嫌っているのだ。奈月ちゃんに好かれるのだから、もっと自信を持って欲しかった。

 眠りについて、まだ数分と経っていないだろう。無音の世界に、バイブの振動音が虚しく響いた。それは携帯電話が振動する音だった。カスミ君が寝てて気付かないみたいだったので、私も気が付かない振りをした。

 

 大学に向かう途中、気が付いたように携帯電話を開けた。そういえば、夜にメールが来たのを思い出した。

 奈月さんからだった。彼女も女の子らしく絵文字を使ったりするのだが、今回は多彩な装飾が見えなかった。そのギャップか味気ない文章に見えた。

 カスミ君……。私考えてた事があるの。とっても大事な事。ずっと、ずっと秘密にしてた事。明日。授業何時に終わる? 合わせるわ。話しあいましょう。

 無表情で携帯をしまった。切羽詰まったような文章だった。だが、カスミ君はどうとも思っていないらしかった。

 何故か歯ぎしりが止まらない。そういえば、今日は俊夫という人間とプレゼント選びをする約束だった。きっとそのせいだ、と決めつけた。




 授業が終わった。それでも奈月さんへのメールは返さなかった。今日は授業で一緒になる事はなかった。しかし、一緒でも同じ事だったと思う。カスミ君は彼女を無視していたように思う。

 結局奈月さんとは一回も会わずに学校を出た。駅への道を歩いていく。

 学校から帰ってくると、すぐに家を出た。向かう先はまたあのベンチだった。集合場所を指定されていなかったから、そこに行くしかなかったように私も思う。

 ベンチについた。案の定、俊夫という人物はそこで雑誌を読んでいた。卑猥な文字が見える。あまり気にしないように、その男に近づいた。

「よ~し、さて行こうか」

 


 俊夫という人は、病院生活の長く、つまりそれほど精神的にいっている人なのだという事が推測された。服装は上下薄い水色一色で、パジャマのような服だった。薄いスウェットとも形容できた。

 その服装自体はおかしくないが、言動が一般人の目を引くものだった。だらりと腕を伸ばして、女、特に小さい女の子が横を通る場合だけ、嫌らしくにやけて見せる。それに気付いた子も気持ち悪がって距離を置くが、それの表情を見ると余計に「へへへ、へへへ、へへへ」と笑いが勢いを増す気がした。もしかしたらわざとかもしれなかった。カスミ君も心底面倒臭そうにしていた。

「俊夫さん、今日はプレゼントを探しに来たんですから、女の子に笑みを浮かべる必要はないんですよ?」

「いやだなぁ、わかってるって。それで奈月ちゃんは今何歳だって?」

「19になるんじゃないんですか? あっ、とりあえずそこのデパート行ってみましょう」

「ふ~ん、19ねぇ、う~ん、もう年取っちゃったねぇ。奈月ちゃんも」

「まだ19ですよ。全然若いじゃないですか」

「いやいや、19と言ったらもう育つとこ、育ってんだろ。んで、バージンじゃない。あぁ、駄目だねぇ。やっぱこう、発育途上のさ――」

 私の意思と同じタイミングでカスミ君も首をかしげた。バージンとはどういう事だ?

「……バージン? どうしてバージンではないと?」

「おっ、見てよ。カスミ君、ぬいぐるみがあるじゃないか。こういうのもいいんじゃない?」

 別段無理をして話を振った風でもなかった。理由を隠そうとはしていない雰囲気だった。それ以上カスミ君は追及しようとはしなかった。恐らく付き合っていると思い込んでしまって、あんな事を言ったのだろう。別に大学生が付き合い、そういう行為が行わるのも不思議ではない。私はそう憶測した。

 


 デパートの売り場の香水や、女性物もアクセサリーなどが置いてあるところで、少し二人で悩んでいるところだった。

「う~ん、好みがわからないとねぇ……何とも。直接聞いてみれば良いじゃない。聞けるよね?」

「できますけど、何か……。えっ、と、秘密にしておきたいんです。驚かせたくて」

 これはカスミ君が奈月さんを避けているわけではなく、私が前に内緒にしておいてね、と暗示しておいたためだろう。誕生日プレゼントのために秘密にしておき、あとで驚かせようなどそこまで考えられるほど、この主人は気配りがよくはない。
 
 デパートを出た。まだ一件しか回ってないが、二人とも疲れたらしい。俊夫という人も普段は病院とベンチ以外は行く事がないのだろう。体力がなくても当然かもしれなかった。カスミ君の場合は精神的にまいっているようだった。

「今日は、この辺にしておかないかい?」

 少し街を歩き、俊夫さんはため息まじりにそう言った。

「はぁ、だけど、結局奈月の誕生日プレゼント何にするか決まってませんし」

「誕生日はいつなんだい?」

「明日なんですけどね」

 馬鹿だった。では今日選ぶのを止めたら、必然的に明日という事になるではないか。

「それはえらい急だねぇ。でも、どうせ渡すものと言ったって、お決まりの物だろ。マフラーとか手袋とか」

「あぁ、うん。まぁ確かに、そうですよねぇ」

「じゃぁさ、明日また行こうよ、それで何とかなるでしょ」

「……それも、そうですね」

 カスミ君も正直面倒くさいのか、結局プレゼントは適当で済ませてしまうらしかった。

 小さな震え。ポケットで携帯電話が振動した。手を滑り込ませると、俊夫さんに気付かれないようにそっと電話を切った。



 少し都会に来ただけで、駅までの道のりは相当なものだった。息を切らせて駅の改札口の前で深呼吸をした。

 この感覚……。永久に忘れる事のない、血みどろの映像。

 この手で突き落としてしまった誰かの背中。女性が現れて泣き叫ぶ。それを見てしまったと思い、逃げる。だが、それを阻むのは……奈月さん。恐ろしくないはずがない。駅こそが元凶とは言わない。突発的な犯行であったろうから、突き落とす事に意味はない。刺し殺してもいい。そう、重要なのはその相手を殺す。という事であった。

 ……! 待てよ。何を今まで思っていた? 馬鹿だ、私は忘れていた。そうだ、カスミ君は奈月さんに突き落とされる前、誰かを殺していた。あれは中年の男性。確か……男は誕生日がどう、とか言っていたような……。

 駅のホームで電車を待つ。時間を見れば、あと十分も余裕がある。ベンチに座る。駄目だ、刺された腹がずきずきと痛む。

 また電話が鳴った。何度も振動されるのがうざったくて、携帯の画面を確認した。案の定奈月さんだった。ため息をついて、また切ろうとした。

「電話出ないの?」

「え、えぇ。……奈月からなんですけど、その……、怒らせちゃったみたいで、何言われるかわかったもんじゃ、ないし」

 奈月さんはそんなねちっこい人じゃない。カスミ君が奈月さんを傷つけても、次の日にはきちんと学校に来て、笑顔で隣に座る。まだ一週間ほどしかとり憑いていない私でもわかるのだ。カスミ君もそれは理解できているはず。

「こういうのはね、早めに謝った方が良いよ。子供が出来た時も、ごめんの一点張りぐらいしか効力ないんだから」

「何の話ですか……」

「まぁいいから。とりあえず、僕も話したいからさ、じゃ俊夫さんに替わるねぇとだけ、話すんでもいいから」

「……、はぁ」

 数秒鳴った後、観念したようにその電話に出た。

「もしもし?」

「………………」

「もしもし? 奈月だよね?」

 あちらの電話という機器に手や指が擦れる音は聞こえても、奈月さんの声は聞こえない。やがて啜り泣くように、息が激しくなった。

「ごめんなさい。……ごめんなさい。……許して……カスミ君、お願いだから嫌いにならないで、ください」

「? 奈月? またきたの? 今日も来る?」

「……本当はカスミ君、……だって、いつも、……っ、だから」

「何? ごめん! 電車が近くて、何言ってるか聞こえないんだけど!」

 カスミ君も声を張り上げて話していた。

 ギギギ。電車の止まる音。ゆっくりとスピードを緩め、人を跳ね飛ばす事なく止まる。人がぞろぞろと出ていく中、俊夫さんだけがカスミ君を待っている。やがて、待ちきれなくなったのか電車の中へと入ってしまう。

「だから、……っ、本当は……」

「本当は、って? なに?」

 カスミ君もギリギリ電車に乗った。立ちながら携帯を耳に当てている。皆の視線が気になる。

「本当は、私。……幼い頃に犯されていて……だから、こんな体っ、……違う、んだ。違うんだよ、わた――」

 肩を叩かれた。振り返った。

「お客様。車内では通話はご遠慮願いますでしょうか? みなさんの迷惑になりますので」

「……は、はい」

 放心状態だった。何かが弾け飛んだ気がした。私自身にもそれは伝わった。

「全く。いいじゃないさ、ねぇ」

 その男の嫌らしい含み笑いに、私は虫唾が走った。




「さっきの電話。どうしたの? カスミ君」

 駅を過ぎて、病院までの道を歩く。石を蹴る。その意志はなくても、動く全てが今は憎い。

「お、おぉ」

 また通りに女の子が通った。あれは小学生ぐらいの女の子だった。可愛らしく赤いランドセルを背負っていた。俊夫さんはそれを見て、前歯を出してニコリと笑った。

「来た来たぁ。いや、やっぱり女の子はあのぐらいが、可愛いねぇ」

「……!」

 カスミ君は何かに気付いたようだった。瞠目した目が、この男の含み笑いから離れない。

「俊夫さん。小さな少女は大好きですか?」

「あ、あぁ。好きだねぇ」

「その、少女と遊んだ事はありますか?」

「あるねぇ。お医者さんごっことか、楽しかったねぇ」

「……奈月にいたずらしましたよね?」

「した、した。めいっぱいしたよ」

 歯茎が痛い。奥歯でガリガリと歯ぎしりをするためだ。

「奈月の体は……どこまで見ましたか?」

「……カスミ君、そろそろ病院だ。あちらはベンチに行く道。僕は帰らせて貰うよ」

 待て。私はそう言おうとした。だが、カスミ君からはその言葉は出なかった。固く拳を握っただけだった。

 体が熱い。涼しげな風が吹く毎にまた一段と、殺意は消されないようにと、燃えあがのだ。
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匿名読者
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