6章目 ★2
 この体に宿ってから数週間が経った。デートをしてから五日ほどは経過していた。

 今日は大学に遅くまで行っていた。午前中から出掛けて、午後の八時にやっと帰って来たのだった。

 ドアを開ける。玄関で迎えたのは暗闇の恐怖だった。カスミ君は慣れているようだった。足取りに戸惑いはなかった。二階に上がって、電気も点けずにベッドに横になる。ため息をついた。

「今日はもう寝よう」

 疲れていたようだった。
 しかし今日が例外的になのではなく、昼に帰ろうが大学に行かない時だろうが、常に部屋ではベッドで寝ていた。寝るのが好きというわけではなく、どちらかと言えば、避けたい現実から逃げているように感じた。

 目を閉じたのだろうか。真っ暗闇なこの部屋では、目を瞑っていようが変わりがなかった。すぐ横にカーテン越しに窓があるはずだった。秋の控えめな冷気が伝わってくる。気持ち良くて私も寝てしまいそうだった。

「……奈月」

 しかし、寝てはいけなかった。

 私はカスミ君と体を共有している。瞳を閉じれば視界はなくなるし、耳を塞げば聞こえが悪くなる。だが脳髄の、考える。という行為においてはまるで私たちは別の生き物だった。

 私は女だった。だから必然的に体の違いが生まれた。男の人には体力がある。そこまで体を鍛えて、共に育った精神力があった。しかし、貧弱な考えしか持たない私にはそれがなかった。だから、大学の授業で一番嫌いなのは体育だ。マラソンをしてる時が一番つまらない。

 しかし逆に私だけの利点もあった。

 彼には繊細さが欠けていた。それでいて臆病で人込みが嫌いだった。

 もちろん私は大好きだ。まず人とお喋りするのが好きで、自分の口で相手と話していると、まるでその言葉までも、自分のもののように錯覚できるからだ。でもその後に訪れる、別れの挨拶は憂鬱だった。声が無くなって虚しくなると、両手さえ自由に動かせない現実を突き付けられて、私の体はこの世に存在しないのだな。と感じるからだ。
 これだけで、私が繊細な心を持ち合わせている。とは言えないかもしれない。境遇が孤独を怖がらせているだけかもしれない。

 しかし繊細である。と感じる理由がもう一つあった。
 私は寝床についても、すぐに眠る事ができなかったのだ。まるで、この体の主人が寝てからが私の活動時間とでも言うかのように、意識は冷める一方だった。

「奈月……奈月」

 神経の太い彼はいびきなんてかいて良い気なものだ。私は自分のいびきのせいで眠る事もできないよ。

 ここ何日か、この寝言や態度を見てきたが、カスミ君は奈月さんを全く意識していない、というわけでもなかった。
 寝言を聞く限り奈月さんの夢を見ているようだし、授業中の目線も時々彼女に向く事がある。しかし彼女との会話では、三十分に一回はため息や欠伸が出た。彼女の情熱を煙たがっているようにも思えた。別段緊張している様子も感じられない。恋愛対象というよりは、最近仲良くなった友達。という感じだった。

「あ、あぁ。えっと、カスミ君?……寝ているよね?」

 自分の口から出たのは男の声だった。そもそも私の思っていた言葉が出る事自体、カスミ君が寝ている証拠だった。

 実は今日は大変な事が起きた。

 しかし、鈍いカスミ君は上の空でまるで気に留めていなかった。それに腹が立った。今日はその事について、彼から詳しく話を聞き出そうと思っていた。だから先程から寝ちゃ駄目だ、と暗示をかけている。

「全く。今何時よ、ったく。早く夢見てよね」

 何回もテストして分かった事が二時間くらいに一回、彼の精神は完全にこの体を離れてしまうという事だった。

 しかしそれは困る。こちらが話し掛け、それに返答できる程度の意識は保っていてもらわなくてはいけなかった。

 その離脱状態は夢を見ていない時にだけ起こった事だった。

 夢は記憶を整理するためにあると聞く。それ以外は休息に回しているんだろう。彼の意識自身も休みを取り、代わりに私が動かせる状態になる、というわけだ。

 声を出そうとしたが、うまくいかなかった。私の言葉が出ないのは、会話できるという事だ。

 カスミ君、今日は何日かわかりますか。
 試すつもりで、あたりさわりのない事を聞く。

「確か、十月六日だったか……夏休みは既に過ぎた事は……よく、覚えて……」

 途中でむにゃむにゃと雑音が入るが、まぁ聞き取れない事もなかった。

 今日はとっても重大な事が起こりました。自分で説明できますか?
「奈月が……奈月が、突然、僕にこくは……、僕の事を好きだ。って告白して」

 その通りだ。さすがのカスミ君も、告白されたという事の重大性ぐらいはわかるらしい。

「……ん……ん」

 私が質問をしなければ、カスミ君から話す事はなかった。私を誰だと思って話しているのだろうか。お前は何者だとか聞かれても不思議ではなかった。

「でも、奈月……僕はさっきも言った通り、好きとかそんな感情は」

 奈月? 奈月さんがまた夢に出ているのか。それとも私に対して言った言葉なのか。試してみた。

 それでも私はあなたが好きよ。あなたがどう思うと関係ないわ。

「……困ったな、奈月ぐらいなら僕じゃなくても、……どうすれば……」

 ビンゴだった。すっかり私を奈月さんだと勘違いをしていた。

「ちゃんと断った、じゃないか。奈月……」

 語弊があった。彼は奈月さんの告白を「う~ん、急に言われても」と誤魔化しただけだった。家に帰り、保留にした奈月さんへの返答を考えると思っていたら、すぐに寝てしまった。それが腹が立った。だから、今日はカスミ君の素直な思いを聞きたかった。
 断ったなんて嘘。考えるって言って逃げただけよ。

「……あぁ、そういえば、そうだった。じゃ、これからは……もっと、君の事もよく見て」

 良い事を思いついた。普段のカスミ君に私は何の影響も与えられないけど、この夢の合間だけ奈月さんを応援できる。素晴らしいアイデアだ。私が奈月さんになりすまし、彼女の隠れた魅力をカスミ君に教えてあげるのだ。

 ねぇカスミ君は私の事をどう思ってる?

「お喋りが好き、だよね。見舞いに来た時もよく自慢話をして、くれた。……嘘なのは知ってたよ。友達100人なんて、さすがの僕でも疑った。でも、『私の友達分けてあげるから早く退院してきなよ』って言われた時は、涙が出そうだった。だから感謝してるんだ」

 急に饒舌に話し始めた。この言葉は常にカスミ君が胸に留めていた本音だろう。と思った。

「よくわからなかったのが、奈月が家に来た時、親の機嫌が妙に良くなった事……いつもは泊めるなんて絶対許さないはずの、父親が何で……。フフ、やっぱり奈月は本当は可愛い奴なんだ、な」

 独白するように、そうべらべらと喋り始めた。私を奈月さんと思っているからだろうか。他人と無駄話をしたがらない人なはずだった。やっぱり奈月さんの事を意識してないわけではなかった。

 奈月さんとは幼馴染らしかった。家に遊び来た。とも言っている。お見舞いや病院で一緒にお世話になったとも聞いた。正確に彼女とどういう仲なのか知りたかった。

「何言ってるんだ。僕たちは一緒に精神科で診てもらってただろ? 何年だっけ?」

 さ、さぁ。カスミ君の方は何年入院してたんだっけ?

「僕は小学校からずっとさ。入院中は他人の病状なんて聞く事はできなかったから、わからなかっただろうけど、実はかなり重かった。虐待だったんだってさ。父親が酷くてね。女癖も悪かった。性癖とか最悪で、病人だろうが幼女だろうがお構いなし。捕まらなかったのが奇跡だよ」

 二重人格と言っていたのは、それが原因なのだろうか。女の人の人格を持っているという。

「そうだと思う。入院して一年ぐらいの時、女の子の人形を取り上げられて、皆の視線が痛くなった覚えが……ある。その時、奈月自身も『誰と話してるの?』って聞いたよね。やっぱり、あれは……その人格が……、今もそいつが隠れて僕の体を使ってると思うと怖気が、走、るよ」

 段々と言葉が途切れてきた。閉じた瞼越しにも光が伝わる。もう、朝なのだろう。彼も起きる準備を始めなくてはいけなかった。

 虐待を受けて別の人格を作ったという事は、嫌な事を引き受ける身代わりが欲しかったのだろう。彼は望んでその存在を作った。勝手に生まれた私とは違う。

 しかし、考えてもみれば、私もカスミ君に宿る一つの人格だった。では彼は多重人格者となるわけか。

 私はカスミ君の言う、前から住む女の人格ではありはしなかった。彼の話によれば、彼の二重人格は小学校に入院して一年後。つまり最低でも今からは六年以上も前の事になる。

 対して私は先々週生まれたばかり。そう、私が彼の認める人格。というのは、時系列的にあり得ない。私はどう転んでもカスミ君に怖がられて、煙たがられるだけの邪魔な人格。

 ピピピ。と目覚ましが鳴る。カスミ君は起きる気配を見せない。

 私の存在する意義とは何だろうか。生まれた意味や、生き続けている意味さえわからない。

「あ、あぁ? ったく、また頭に何かぶつかった」

 ……至極簡単な答えだった。

 私が、カスミ君を幸せな道へと誘導する。あれだけ慕われている奈月さんこそが最良のお相手だろうし、ほら、今だって私のおかげでカスミ君は学校に遅刻しなくて済む。

 そうだ。私の存在意義はそれだけのために。カスミ君の将来のためだけにある。

 ましてや、この先の未来に誰かに殺されるなんて、あってはならない話だ

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匿名読者
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