約束すると言っておいて、ずっと引き伸ばしにしていたカスミ君だったが、奈月さんに突かれてようやく日にちが決定した。今日だった。ファミレスで約束して三日が過ぎていた。
日曜の朝だから、だろうか。よく寝ている。
さきほどから目覚まし時計も鳴っている通り、約束していた時間まで一時間しかなかった。目が閉じられているため私には時間が見えないが、時計が優秀だった。
「八十分の経過だよ。遅刻だよ」
としっかり言っている。逆算すれば今何時かもわかる。
私にはどうしようもない事だった。でもずっと待ちぼうけを食らっている奈月を想像すると、ビンタしてでも起こしたい衝動に駆られる。
本当にちょっとの出来心だった。
試しに自分で自分の頭にゲンコツしてみた。
出来た。遠慮がなかったから、ゴツンと鈍く音が響く。
指も曲がるし、腕はこの頭を強く打った。もちろん、痛いのは私も同じだった。
「ん? んだよ……うん? あぁ、そうか今日何か約束してたんだ」
嬉しくなった。よくわからないけど、私の命令が通ったのだ。
調子に乗って、足を動かし急いで支度するように努めた。
出来なかった。
彼はまだ、時計を眺めて、何でこんな早く起きなきゃいけないんだ? と唸っている。混乱した。またこれも偶然なのかと考えた。
「あ……、あっ! やばい! しまったどこ行くかなんて考えてないぞ」
箪笥を開けた。服を着替えて二階にある洗面所に向かった。歯ブラシを口に入れて慣れた手付きで磨いていく。
カスミ君がどんな容姿か気になったが、ここには鏡がなかった。この部屋にはガラス以外鏡の役目をするものはない。
午前十時を十分過ぎた頃、パジャマを脱いでズボンを穿こうとしていたら、ふいに玄関でベルが鳴った。男性の下半身を見て興奮気味だったせいか、デートの時間をすっかり忘れてしまっていた。
家の前には奈月ちゃんが立っていた。何分もの遅刻だった。
「もう、しっかりしてよね」
そう言う彼女の表情は明るく、彼女は別段怒っているわけでもないらしい。
彼女の服装を見てみても、スカートは青いレースが入り、ピンク色の上着が下着の黒を浮き上がらせている。顔を覗けば、いつもは髪で隠れていた額が、ピンで留められて可愛い肌を露出させていた。明るい雰囲気だった。彼女なりのオシャレなのだろうか。それは誰が見ても張り切っている格好だった。
カスミ君が何の予定も立てていない事を伝えてても、彼女の嬉しそうな顔は曇りはしなかった。一瞬考え込んだ後、「じゃその辺を歩こうか」という話になった。
この街には派手に遊ぶ場所がない。ゲームセンターですらなかった。まずネオンというもの自体が一キロに数個見えるほどで、両脇に並んでいる建物の大半が民家か空き地のどちらか。大学から帰ってくると、まるで一昔前に飛ばされたかのように気分になる。
彼女を先頭に共に歩き、今やっと現代っぽい駅が見えた。それを眺めて私の口から不意にため息が漏れた。仮にも彼女とのデートでそれはないだろうと思った。
「つまんない?」
一つ立ち止まって奈月さんが振り返った。笑顔のままだったけど、まるで無理に固めたかのような表情だった。声に優しさが感じられなかった。
「でも仕方がないよね。カスミ君が決めてなかったんだもん。ね、そうでしょ?」
実は怒っているようだった。カスミ君が馬鹿正直に「え、奈月怒ってる?」と聞くから、見る見るうちに形相が崩れていく。最後は頬を膨らませてむっとした。
「馬鹿」
それっきり前を向いて話し掛けては来なくなった。カスミ君の何度目かの小さな溜め息。心底面倒臭そうに頭をかいた。それを見て、カスミ君は誰かと話す事があまり好きではないのだな、と感じた。
私には、沈黙が居心地の悪いものに思えた。こんな時私ならもっと気の利いた台詞が言えるのにな、と考える。
左手に建物と建物の隙間が見えた。それまでの光景と違いがあると思えなかった。だけど、私の視線はそこから離れる事がなかった。自然と足が止まっていた。カスミ君にとって思い入れのある場所なのだと、気付いた。
「どうしたのよ」
「いや……この道。懐かしいなって思ってさ」
このあたりは通る事のない道だった。普段この街で歩くのは駅と家までの短い距離で、この辺を歩くのは初めての事だった。
しかしカスミ君は懐かしい。と言っている。つまり私が憑く前、大学に入る前にでもよく通っていた道なのかもしれなかった。
「……そうね」
気付けば私から愛想が消えていた。記憶を辿って繕う事さえ忘れていたようだった。
立ち止まったままだった。奈月さんはじっと前だけを見つめて、私が歩き出すのを待っている。まるで欲しい物をねだる子供のようにも想像できた。
足が動いた。やっとか、と思ったら、つま先をその路地に向けて、指をさした。彼女に合わせるつもりはないらしかった。
「久々に行ってみようよ。奈月。暇なんだしさ」
「嫌よ」
間断なく応えられた。カスミ君が何を言うか、わかっていたようだった。
人間味を感じない冷たい声だった。
「何でだよ。二人一緒にお世話になった場所じゃないか」
「……本気で思ってるの? カスミ君。私たちがあそこで世話になったって」
「当然じゃない。そのおかげで僕たちは人並みに暮らせてるんでしょ?」
結局ここを抜けた先に何があるのか、気になった。でもこの場合は、奈月さんを喜ばす事が最優先だと思う。その場所に彼女を連れて行って、楽しませる自信があるのかと疑問に思った。
「もちろんだよ。実はね、入院してる間抜けだしたりして、秘密の隠れ家を見つけたんだ」
「?……そうなの?」
一瞬私も彼女同様、カスミ君のもちろんだよ。が誰に向かって言った言葉かわからなかった。仮に私が会話に参加していたら。と仮定した場合だけ、筋が通った。
楽しませる自信があるの? もちろんだよ。という風にだ。
カスミ君自身まるで気付いていないようなので、自問自答だったのだろう、と思う事で無理に納得した。
「結構歩くけど、眺めの良いところだからさ」
「………………」
考え込んでいた。やがて、表情を柔らかくしてふっとほほ笑んだ。
「本当にそう思ってるんだね。カスミ君は」
「……どういう意味?」
ううん、じゃ行こうか。案内してよ。
そう強引に背中を押されて、質問への答えはさらりと流されてしまった。
何か二人の間で、幼馴染以上の事情が絡んでいるらしい。その疑問の全てをぶつけたい衝動に駆られる。でも今回は寸前で堪えた。どうせ、意味のない事だろうと思ってもいたし、二言目の狂言で、奈月さんが私の正体に気付くのを恐れた。
彼女に見つかれば、私はカスミ君共々殺されてしまう。そんな気がしてならなかったのだ。
建物を過ぎて、森林の中へと足を踏み入れた。下は舗装されていた。だから、二時間ぶっ通しで歩いた今でも疲れる事はなかった。木々からは生ぬるい陽光が差し込めた。オレンジ色の光が、もう夕方なのだと知らせた。
「ほら、あれが僕たちの通ってた病院だ」
樹木に手を付いて白い建物を見ろした。屋上らしき場所で服が干されている。あれが病院らしかった。庭ではブランコで遊ぶ子もいたが、ほとんどが隅で丸くなっているだけだった。
「そういえば、奈月」
「何よ」
無理にこんなところまで連れて来られて、不機嫌なようだった。
「ゼミが始まった最初の日の事なんだけどさ」
「もう、その話は忘れてよねって言ったでしょ」
振り返ると後ろの彼女はちょっと顔を赤くしていた。それが太陽のせいかはわからない。
「あ、うん。そう言えばそうだったね」
「まぁいいよ。で、何聞きたかったの?」
「いや、大した事じゃないだけどさ……どうしてあの時普通に自己紹介しなかったのかなぁって」
言われてみれば少しおかしくもあった。奈月さんは気が弱く、目立つ事は嫌っていた。皆と合わせて出身校で妥協すれば言葉に詰まる事はなかったはずだった。何か皆と同じでは良くない理由があったのかもしれない。
「それこそ、大したことじゃないわよ……」
「そうなの? う~ん、でもできれば聞きたいかなぁ。何て言ったんだっけ、確か誕生日の事とか話してたよね」
「だって、カスミ君が普通に言わないから……」
私からしても聞き取り辛かった。何? と聞き返す。
「カスミ君が普通に自己紹介しないから、私も何か凝ったもの言わなくちゃって思ったの!」
なるほど。つまり奈月さんは、それほどカスミ君を意識していたわけだ。あの時感じた視線は、そんな感情が含まれたものだったのか。
「それで、つっかえて、最終的には誕生日だっけ?」
茶化すように言った。珍しく私もノリノリだった。赤くなる奈月さんが可愛くてついいじめてしまう。
「違う! 誕生日と由来だよ。もう、本当にちゃんと聞いてたんでしょうね」
「え、うん……。いや、あまり」
カスミ君は時々話を聞かない事もあった。授業も居眠りばかりだった。
「私の名前の奈月っていうのはね、生まれた月で付けられたの。ほら、六月は水無月って言ったり、五月はさつきって言い換えられたりするでしょ。
それと同じに、私も七月に生まれたから、ななつきを縮めてなつきにしようって事になったのよ」
自己紹介の時とは違い、そう言った奈月さんは誇らしげだった。自分の名前に誇りを持っているのだろう。
しかし、カスミ君は何も反応せずに、頭をかいただけだった。まるで聞いている様子ではなかった。話が長かったから飽きたのかもしれない。そろそろ私はこの主人をぶっとばそうと、ひそかに考えている。
「はいはい。カスミ君にはどうでもいい事ですよね。もう……」
奥に来るとベンチがある場所に辿り着いた。背もたれだけが樹木の脇から覗けた。大きな樹が生えてなく、地平線に沈んでいく太陽の様子が一望できた。絶景だった。
そこが秘密基地だった。ベンチは二つあるらしく、一つは隠れて見えなかった。
近付くとそこに先客がいた事に気付いた。私も奈月さんも驚いた。だけどカスミ君は久しぶりに遊びに来た知人を歓迎するかのような口ぶりで、あぁ今日も来たんですか。とその人に言った。髭が濃く顔立ちにしては老けて見える人だった。
一つに私と奈月さんで座り、隣のベンチでは男の人が座っている。奈月さんはため息をついた。まるでカスミ君と二人きりで眺めるのを期待していたようだった。
「さて、じゃ私は帰りましょうかね」
気を利かせて男の人が去って行った。カスミ君は合わせるように笑って、じゃ、俊夫さん、また。と手を振った。どうやらその男の人は俊夫という名前らしかった。
「ここは落ち付くな。やっぱり」
「うん……」
彼女の顔はまだ赤かった。もじもじ肩を上下させて、何かを期待しているようだった。彼女の腕が擦れる。布越しに体温が伝わった。
「でも、少し疲れた……」
嫌な予感がした。瞼が重くなっていく。頭が重く感じて、置き場所に迷った。
今日は早起きだった。睡眠時間を十分に取っているとは言えなかった。だから眠くなるのは仕方ないかもしれなかった。
結局こくりこくり、と下に落ちそうな頭は隣の奈月さんに預ける事で、安定した。奈月さんの肩に耳が触れた時、彼女がびくりと震わせた。
「カスミ君……?」
いくら鈍いカスミ君でもこれは大胆すぎた。しかし、私の息は穏やかですぅすぅと定期的だった。どうやらカスミ君は歩く疲れて勝手に寝てしまったようだった。
「寝たの? カスミ君」
嫌がる素振りは見せなかった。奈月さんの事だから、緊張で体を硬直させているだろうと予測していたが、違った。さっきまでの震えはおさまり、手で髪を撫でられた。逆に寝てしまって好都合とでも言うかのように、べたべたと触れてきた。
「寝たのね、カスミ君。じゃ……」
彼女の肩は離れて、両肩を持たれた。キスされるのだと予想した。その通りだった。何の躊躇いも感じさせず、柔らかい感触で唇を奪った。
衣服の擦れる音。何をしているか想像できてしまった。怖かった。カスミ君に起きて欲しかった。
でも遅かった。行為は始まっていた。
「カスミ君、責任取ろうか。私の大好きなカスミ君……」
どうすれば奈月さんに気付かれず、カスミ君を起こそうか考えた。もしかしたら、奈月さんもほんの出来心なのかもしれない。そう考えれば、既に下着だけであろう今の彼女を、カスミ君に見せる事は良くなかった。朝のようにげんこつで無理矢理起こす方法を取れば、驚いて飛び起きる。服を着る余裕を与えたかった。それでいて彼女に危険を知らせる方法。
「……奈月」
「!……カスミ君、起きてたの?」
とりあえず声に出してみた。声に出せた。自分でも驚いている。
何を言うかは決めてなかった。私のカスミ君が奪われると思ったら、いくら奈月さんでも許せない気がした。それで焦ってしまったのだ。
「カスミ君?」
様子を窺うような声。息が掛る。顔が近いのだろうと判断した。
「奈月……僕は、僕は」
「起きてるのね、カスミ君」
慌てて服を着ていた。そちらは成功でも、起きているとは思われたくなかった。応援すると言った手前、奈月さんとカスミ君とはうまくいって欲しい。
「あぁ、うん……奈月。最近はその……よく見れば可愛いところも」
寝言を装った。騙せたのかどうかはわからない。しかし奈月さんはそれで萎えてしまったのか、それ以上関係を迫ろうとはしなかった。
……恋人のように座る自分を見つめ返して、嫉妬が湧きあがった。どうしてだろう。奈月さんの恋は応援したいけど、私のカスミ君は取られないで欲しい。
矛盾しているとは、自分でもわかっていた。私は奈月さんが好きだ。カスミ君に真っ直ぐぶつかる彼女に好感を持っていた。
ならばこの感情は何者だ。嫉妬のように渦巻く胸のもやもや。
そう自分で思い返して、やっと気が付いた。私はただ彼女が羨ましかっただけなのだ。私もカスミ君と会話がしたい。
叶わないとわかっているからこそ、嫉妬で終わる。寝ている間は何故か意志があっちに伝わった。その気になれば、この場で奈月さんに罵倒を浴びせる事も可能だろう。
「はぁ……私ってどうして、こう」
独り言を呟くところを聞くと、カスミ君が寝ていると思っているらしい。
奈月さんのため息が耳に掛る。くすぐったい。
やっぱりこの二人が、幸せになるべきだと思った。私は希望を持ってはいけないはずだった。
私は彼女たちを応援するはずだった。
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