その名前を聞いた時には、正直驚いた。
「さて、まず簡単に自己紹介をしてもらおうと思うのだが」
簡素な丸いテーブルに十人ほど人間が腰掛けて座っている。左から順番に立って、名前と出身校と住んでいる所を端的に言っている。
私の番は次だった。隣の子が座ると、慌てて立ちあがった。緊張しているのか手に汗をかいている。
「春日カスミ。と言います。春の日に、霞み、棲むで、春日霞棲です。少し前に病院にお世話になって、変なところもあるかもしれませんが、皆さん、よろしくおねがいします!」
礼儀正しくお辞儀をし、緊張が解けて座る頃には皆唖然としていた。それまでの自己紹介とは違ったためだろう。先生はそれを「はい。元気があっていいですね」と褒めて次に進むよう促した。
次々と自己紹介をしていく中、私の目線は向かいの女性にだけ向けられていた。美人というわけでもないが、女性の少ないこの部屋では際立っている。彼女の方は気付いていないのか、紹介をする人たちを見上げて、時には拍手などもしていた。
彼女の番の直前という時、私の鼓動が熱く高鳴る。彼女が何を言うかを期待しているようだった。しかし痛みや感情を共有してる私でさえ、この体の持ち主が何を期待しているかまではわからなかった。
「私は山脇、奈月と言います。えっと、その……えぇっと、えっと……」
俯くと前髪がだらりと落ちて、とても暗いイメージを覚えた。唇を強く噛んで震えているのを私たちに知られないように努めているようだった。強気な瞳からは想像もできない程の恥ずかしがり屋だった。
「そんな緊張しなくてもいいから。とりあえず、出身校とか簡単な事だけで――」
「いえ、あの……あぁ、もう、ちゃんと考えてたのに……」
彼女の視線を感じた。その時にちらりと可愛い額が窺い見えた。私同様、この体の持ち主もその視線に心当たりはないようだった。
「すいません。何を言うか、その……順番が来る間に考えていたんですけど……急にふっと飛んじゃって」
両隣でも小さく笑う声が聞こえる。それは彼女を嘲るものではなく、親しみの込められた雰囲気を盛り上げるようなささやかな笑いだ。
「わかりました。じゃ、最後という事で」
それを聞いて、すとんと座った。見ればまだ顔が赤い。それを隣通しで話し合っていると、彼女に睨まれた。よくも私を馬鹿にしたな。と無言で訴えかけられた気がした。
今日、この大学に来てゼミというものに集まるまで約六時間だろうか。私はそれほどの時間、街を歩き、過ごしてもまるで自分の事が理解できなかった。
言うなれば、映画だ。春日カスミという主人公に感情移入した私が、場面場面で突っ込みを入れたり、驚く。常時私の目線は彼より一つ上に存在し、完璧に主観的に見る事はなかった。
だって、どう考えてもこれは私ではない。私はこのような男の声は発しないし、相手に合わせて冗談で笑ったりはしない。だから、私はこの男の中に住み着いた亡霊のようなものだ。と思うようにした。
席は最後まで紹介を終え、最後に回された奈月さんの番になる。胸の前で組んだを強く握っている。目線がきょろきょろしているが、趣味なども入れて、皆よりもよっぽど自己紹介らしかった。
一番最初に驚愕したのは、朝この体が目を覚ました時だった。
何故自分が生きているのか。寸前まで腹に痛みを孕んでいたはずが、その数秒後には何事もなかったかのように、欠伸をして背伸びをしていた。
自分はいったい何者なのかと考えた。機械に脳だけを預けた人間か。だけど体の弾力は生々しい。さっきの出来事と良い、あまりにも突然で展開についていけてなかった。
頭の中を整理する。私は駅で人を殺した。そしたら傍らに女性が座り込んで泣き出した。
犯行がばれたと思ったのだろう。その場から逃げた。
でも階段を上がる途中で、女性と向かい合って、話し合った後殺された。
そうだ。殺されたんだ。私は殺されたはずだった。でもこうして何事もなく生きている。生前と同じように彼の体に憑依している。
まだ事情が飲み込めない。
生きた人が生き返る条件を考えた。まるで考え付かなかった。
私の妄想だったのだろうか。それにしてもおかしな妄想だ。
おかしいと言えば、私自身もそうだった。
驚きはしても瞠目はしない。下半身がやけに熱いので無視しようとしても、表情は「また今日もか」と言うかのように、頭を掻いてまじまじと見つめる。
歯を磨き、顔を洗う。トイレにいたっては、噴き出す際の開放感が熱いものを無くした。ただの尿意で安心した。
家から出る頃になって、自分がこの体に乗り移っているだけに過ぎない人間である事を知った。行動だけは彼の物で、私はこうやって考える役を任されたのだ。しかし考えてもそれが体外に現れる事はないので、思う、や思念と言った方が適切かもしれない。
ただ彼の中にいて思うだけの私はきっと、この世界では存在している事にはならないのだと思った。
それに気付いて胸を痛めた。でもそれは気のせいだった。私の体はどこも変化していない。
私が何を思おうが実際は関係ないのだと知った。
自己紹介を済ますと簡単な説明だった。眠気を感じるのは彼も同じだった。でも眠くなったのは私の方が早い。ちょっとした優越感だ。
やっと私は突っ伏して、暇になったのか自然と彼女に目が行った。でも、彼女もは既に小さくいびきをかいて寝ていた。
「馬鹿面しやがって……」
私の口からそう呟く声が聞こえた。腕の隙間からよだれを垂らして寝ている顔が見えるのだ。
「では、今日はここまでにしよう。恐らく今週だけは皆早く帰れるぞ良かったな。え~っと、山脇さんに、春日君?」
「は、はい! あっ、どうも……あぁ、すいませんでし」
た。と突然立った彼女は、顔を髪で隠して座った。私の方はずいぶんと冷静で、寝てませんよ~なんて軽い返事をする。
皆席を立って、部屋から出ていく。初日だからか話し声はあまり聞こえてこなかった。
「ねぇ」
後ろからそう言われた。振り返ると奈月さんだった。
「どうした?」
「さっきの自己紹介の事はもう、忘れてよね」
はい、はい。と相槌を打つだけだった。私達も部屋を出て、その足の先は大学の門に向って行った。
「私、本当はあんなんじゃないからね。高校だったら、もっと強気で、それで友達もいっぱい居たんだから」
「わかったよ。疑ってないって」
私も話に加わりたい衝動に駆られた。でも、カスミ君は私の言葉を代弁してはくれなかった。
カスミ君と奈月さんはどういう関係なの? ……空気を読んで自分で解決するしかなかった。
「なら、いいんだよ。……ねぇ、じゃあさ」
手を後ろで組んで、もじもじとしている。何か言いたげだ。その言葉が出たのは、数十メートル歩いてやっと門まで来た頃だった。
「今日一緒に帰ろうよ」
それが言いたかったらしい。ぼぉーと彼女の顔を見て、やがて彼女が言い終わって一息つくのを見ると軽くほほ笑んだ。
「そんな事言うために、何かすごい努力だったな」
「い、いや。努力じゃなくて、……別に帰りたくないなら、いいけどさぁ」
「でも奈月は一緒に帰りたいんだろ」
「だって、やっぱり一人で帰ると、馬鹿にされそうじゃん」
「何だ、友達が大勢いるんじゃないのか?」
私も同じ疑問を持った。
「カスミ君は、まぁ高校あんまり行ってないからわからないだろうけど、大学ってのはさ、もう皆離れるのが主流ってか、掟みたいな」
常時必死に弁解する彼女をクスクスと笑っていた。楽しそうだった。
「大丈夫だって、もうわかったから」
気が付けば大学からは何キロも離れ、既に駅が見えていた。階段を上がっていくと白を基調した空間に出る。
記憶が鮮明に蘇る。目の前が赤く染まった。カン、カン、カン。と鳴る音が私の鼓動を速めた。胸が熱い。
「どうしたの? 胸痛い?」
彼女が本気で心配して聞いてくれる。背中をさすってくれていた。
「どうしたんだろ。何かこの音が、やけに恐い。それに腹にすごい違和感が」
私の気持ちだった。私だけが知っている死の恐怖。お腹に感じた違和感が、彼に伝わっていた。
「電車……」
「うん?」
電車が来る。頭の重心が定まらない。頭がやけに重い。
その機械が通り、ゆっくりと止まった。彼女にしがみ付いてなければ私は撥ねて殺されてしまいそうだった。
そんな錯覚を覚えた。
その電車は見過ごし、次のものを待つ事にした。
「病院寄ろうか?」
「いや、平気だ。それにあそこは精神科で、多分これとは無関係だよ」
彼女もそれ以上は強くすすめずに、そう。とだけ言って、それっきり電車が待つまで、気まずい時間が過ぎた。歯をぎりぎりと擦っているところを見ると、カスミ君も彼女に喋る事を遠慮しているように思えた。
「今日はさ」
「うん?」
今度は私の口から、そう焦らすように呟いた。
「今日はちょっと寄り道してこうよ。ファミレスとか行ってみたかったんだ」
「……しょうがないなぁ」
ふぅとため息をついて、空を見上げる。曇天だった。太陽が眩しい快晴の日。その日でなければ殺人は怒らないというに、電車が来る度来る度、私の体は肩をすくませて身震いした。
恐らく体が覚えているのだろう。私が経験した痛さや恐怖がカスミ君にも伝わっている。
やはり妄想ではない気がした。私は近い将来、殺されてしまうのだ。
恐かった。
その恐怖をカスミ君も感じて震えだす。
この苦悩を覚える時だけは私も春日カスミであるのだ、と認識できるような気して、ちょっぴり嬉しくもあった。
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