真っ暗だった。何も聞こえなかった。
両脇にある何かに命令すると、強く握る感触があって、初めて私に両手があるのだと気付いた。
前に倒れると自然と二本の棒が動いた。足だった。驚く事に私は人間だった。
声も出なかった。だけど音は聞こえた。カン、カン、カン。と定期的に鳴る音が、私を誘っている。
生まれたての乳児のように、手を前に突き出して辺りに物体がないか探した。
当たった。熱を持たない冷たい壁。だけど掴む事が出来て、握ると周辺から簡単に皺が寄る。
とその瞬間だった!
目の前がフラッシュを浴びたように、急に明るくなって、私が一瞬にして見たものとは男性の背広を握っている姿だった。
「ん? どうした?」
何故か私の周りには人間がいた。
見上げれば快晴。強い日差しがどの人間にも影を落とす。左を見れば、赤く点滅する踏み切り。
正面はにこやかに話す男の背中。
「今日が誕生日か。もう何にするか決めてるのか?」
息づかい。皺の寄った嫌らしい含み笑い。この男がする全ての行動に吐き気がした。
自然と口の奥でぎり、となる音がした。私は歯ぎしりしていた。
私は正面の男にこの不思議な光景の事情を聞こうとした。驚いた。声が出なかった。それどころか、明るくなった途端に体のどの部位も私の命令を受け付けなかった。
「やるんだ。やるんだ。やるんだ。やるんだ」
カン、カン、カン。と鳴る音は、私を急かすようで、やがてその音も私の心臓と同調した。
汗が滴り落ちる。左を見れば奥ではぶぅんと鳴らして大きな機械が迫ってくる。
自分を落ちつかせた。
何か重大な行動をする前触れなのだ。
それだけで把握した。電車が前を通るこの瞬間を利用して、私は彼の背を持って、緊張していて、そしてあってはならない黒い感情が芽生えてしまうほど彼が憎い。
そう、つまりは、私は目の前の人間を殺したかっただけなのだ。
電車が近づく。皆がぞろぞろと集まり並びだす。電車が勢いを持って迫って来た。
私ではなかった。完全に私のものではない力が右腕に掛って、電車が通る間合いをはかって持っていた背広を力強く押した。
え、え、え。と彼は一瞬だけ驚いて振り向き、私がそれに気がつく頃には、既に彼の頭だけが綺麗に電車に跳ねられていた。
ギギギ、と電車が耳を濁して、ゆっくりと止まって行く。光沢の強いその機械は過ぎ、向かいのホームが見えるようになった。下を向いた。彼の死体は、肩の骨だけが見えてぶるぶると震えている。頭が無くて、よく見れば内臓は私の足元でぴゃりと跳ねたとこだ。
ああああぁぁぁぁぁぁぁぁああ。
声に出して呻いている。だが私はこの体に幽閉されたように声を出す事、いや、動かすことすらできないのだ。
「ああぁぁぁぁ。そんな、あ、あなた……いや、いや、何、なになになん、えっ」
隣で女性が上擦りながら泣いている。
それを見て私は瞠目し、一目散に逃げ出した。逃げだそうと足を伸ばした。
「……どうしてお前が……」
私の口から出ている。だけど、私の声は男のものだった。
「馬鹿。バカだよ。私信じてたのに」
光が強くて彼女の顔はよく見えない。逆光だけが輪郭をぼやけさせている。
「ごめん。違う、違うんだよ。なぁ話を聞いてくれ。あれは……な」
彼女がゆっくりと近づいてくる。どうやら友人のようだった。私の足も震えを止めて彼女の元へと歩み寄る。だけど、私のお腹で嫌な音がした。ぐすっ、と肉を裂く鈍い音だ。私には痛みだけが走った。
「駄目だよ。もう、止められないよ。私、私……カスミ君も大事な人だけどね。私にとってはあの人も大事な……」
その激痛に体はゆっくりと倒れた。血は地を這って、短い髪にもこびり付く。
「あぁああああ」
あぁああ。痛いよ。痛いよ。カスミ君。
意識が遠のいだ。視界がぼやけていく。私の生涯は意味がわからないまま終わり、そしてこの幻想の舞台で踊る人形はここで仕舞われるのだ。
せめて彼女の顔を見たかった。だが、体に力が入らない。靴だけがたくさん見える。騒ぎ出す雑音は消えていき、生まれて間もない私は、そこで死んだ。
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