『実はね、もう一つ零を上機嫌にさせるお楽しみがあるの。でもそれは内緒。零だけの秘密だから』
桃枝さんは別れ際にそう笑みを残した。気になるけれどそれは聞かずに手を振り教室へ。
この大仕事を遂げてから、その時にもう一度話をしよう。そんなプランが私に勇気を分けてくれる……はず。
教室にはまだ誰もおらず、一番乗りの余韻に浸りながら椅子に腰掛けた。繰り返される溜息と止まらない震え。心臓はもう既にフィルインを鳴らしている。
次第に増えていくクラスメイト達…といっても友達なんて思ってないし、思われてもいないんだけど、それに比例して賑やかさを増していくこの空間に、只一人奥歯を噛み合わせて腕をさする私は場違いな気がした。
『もう、あなた達とは一緒にいたくありません』
何度も耳の奥でリピートして、その度舌が痺れた。
でも意志を示さなきゃ駄目なんだ。自然消滅を願っていては変われない。唇を咬み切ってでも、咽を炙ってでも言うんだ。
どんな制裁が待っていても、言わなくちゃ…一歩を踏み出さなきゃ…
「おはよう仁科!」
肝を潰されて顎を上げると、ニコニコと橘さんがステップを刻んでいた。
「お、おはよう…」
最後に見た不機嫌そうな眉間のしわは何処へやら、満面の笑みは創られたものではなく純粋さが滲んでいる。
いつもなら挨拶を投げかけてくることなんて無いから、何か余程良いことがあったに違いない。
「あの…どう…したの?」
「あ、わかるぅ~?実は今日、すっごいお楽しみが待ってるのよ」
脳裏をよぎる桃枝さんの陰。
今だ、この機を逃しちゃいけない。私は胸の奥底から助走を始めた。
「あの…橘さ「ゆりえ~見て~これ買っちゃった~」
「えっ!?なに?結局買っちゃったの?ちょっと見せてよ」
私の決意は遮られ、友人の元へ歩いていく橘さん。
その背を見つめながら、高圧力の蒸気機関で激しく暴れる心臓を口から飛び出さないようにしっかり呑み込んで胸を撫でた。内心ほっとしながら額に手を当てる。
『……大丈夫、焦らなくて良いから…そうだ、学校が終わってからでも…』
とことん逃げ腰で泣きたくなるような私の弱さを恥じながらも、微かな抵抗心を手に私は荒い呼吸を整えていた。
彼女の上機嫌が吉とでるか凶とでるか…恐怖と不安が耳を右から左に抜け去って、1R終了のゴングが鳴った。
~NOW LOADING~
長かった一日が終わった。でも振り返るとその軌跡はほんの僅か。
四六時中ずっとハートを打ち鳴らし、何度も吐き気に耐えた今日という日をこのままでは終わらせることは出来ない。今やらなければ、明日にはきっと告げることが出来ない。明日は来ない。
意を決して立ち上がる。
終業のチャイムが響く中、まだ席に着いたままの橘さんに歩み寄る。
「あ、あ、あの、橘さん。話があるんだけど……」
「あ、仁科。今日桃枝をやっちゃうから」
.
.
.
.
.
「………え?」
私の言葉なんか無視してその真ん中を切り裂いた響きの意味を模索しながら、私は口の端を震わせた。
結局、切り出さなければならない言の葉を何処かに置き忘れて、真っ白な頭を左右に揺さ振り何か音が出ないかと床をまさぐる。
これか、彼女の笑顔の理由は。
屈託のない微笑みに寒気さえ覚え、私の硬直した唇からは息だけが漏れた。
「いやね、彼氏にアイツのこと話したら一回会わせろって言うのよ。ちょっとお仕置きしてやるからってね」
黄々とした声色が目頭から胸に流れてくる。荒かった私の呼吸も、童話で描かれる夜の海のように静かだった。
「…………や……やめとこうよ…」
強く反発できないまま、情けない声だけが細い糸を伝う。
「なに?まだビビってんの?大丈夫だって、佐伯の奴今日何かやらかしたらしくてさぁ、居残りさせられるらしいよ。それに知ってるでしょ?私の彼氏の事」
知らないよ、そんな事。
違うよ。
私が言いたいのはそんな事じゃない。
どうすれば彼女を止められるか、どんな理由が必要か、言葉がいるのかを、頭の中を引っ掻き回して探す。探す。
「ほら、善は急げってね?行くよ、みんな」
善?どう考えたって悪だよ。
どうやら私以外の皆は既に話を聞かされていたらしく、口元に笑みを浮かべたり少し心配したり、その反応は様々だったけれど、誰も橘さんに逆らえる人はいなかった。
こんな考察してる暇に解決法を見つけ出せ!
そう胸を殴りつけながらも、袖を摘まれて彼女達の背を追うしかない私はやっぱり掬いようのない存在だった。
「桃枝さ~ん、ちょっといい?」
下駄箱に一人佇む桃枝さんへ、咽に絡み着くような甘い撫で声を浴びせる橘さんは夕闇をバックに腕を組んでいる。
「少しだけ、私達に付き合ってもらえるかなぁ?」
せせら笑いが周囲から漏れる。
私は一人、必死で吐き気を抑えながらその場にしゃがみ込んだ。
チラリと私に視線をよこし、そのまま橘さんを見据えて桃枝さんは口を開いた。
「ごめんなさいね、人を待っているの。だからそんな暇ないわ」
臆した様子は伺えない。俯いたままでもそうわかるのは声の調子と空気の為だ。
凄いな、桃枝さんは本当に強いよ。私なんて憧れることも許されないくらいに眩しい。
「そんなに時間かけないから大丈夫だって。それとも何?ビビっちゃってる?」
皆の笑い声がクッキリとした輪郭を得て宙を漂う。
再び込み上げる冷たく熱い何かが咽を突いて呼吸すら難しい。
涙だけは堪えて腕を強く握り絞めた。嗚咽を呑み込んで只々震える。
「……いいわ、行きましょう。どこ?体育館裏にでも連れて行く気?」
彼女の表情を覗くことも出来ない。ひたすら走り続ける鼓動が五感を覆い隠して、夕焼けも私を照らしてはくれていない。
桃枝さんの冷ややかで、だけど力強い声が耳元を掠めた。
少しで良いから、私に、勇気を分けて下さい。
×××××
「そうそう、最初からそう言ってくれればいいのに。じゃあ行こうか?」
桃枝さんを囲むように全員が歩き出す。
「あ、あの!!私!!」
震える足で立ち上がる。その反動で下半身から崩れてしまいそうだ。
みんながを振り向き私を見据えた。しかし、桃枝さんだけは微動だにせずどこか遠くを見つめたまま。
「あの……私忘れ物しちゃったから…取ってくるから先に行ってて…」
そう呟いて踵を翻し走り出す。
背後から
「いつもの場所だから早くきなよ-」
と声が聞こえた。
ひたすら走る。
階段を一段飛ばしに駆け上がり、息咳吐きながらたどり着いた教室には鞄が一つだけ。無造作に放り出されいるそれだけが西日に射されて赤黒く光っている。
扉を閉めないまま廊下に飛び出し、止まない喘ぎを再び沸騰させる。
流れ行く情景は、普段目に映る人の束が無いというそれだけで別世界だった。
虚無感に包まれたままもつれる足をバタつかせ、チカチカと瞬く蛍光灯の下をのたうち、今にも溢れそうな涙を汗で隠してもがきにもがく。
吹奏楽の芳しい音色やグラウンドから聴こえる部活動のけたたましいざわめきも、非現実的に闇の中の校舎に響いている。
どこ?どこ?どこ!?
不安と焦りが血をたぎらせて、恐怖と惨めさが咽を凍らせた。我慢していたはずの涙はいつの間にか頬を伝い胸に染みをつくっている。
見えた。
薄暗い教室の隣、『理科準備室』と書かれたプレートの下に吸い込まれていったそれ。
随分と落ちたスピードに最後の鞭を打ちつけて奥歯を噛み絞めた。
「佐伯君!!!」
薄暗い部屋の中に一人立っているその影は目を丸め、激しく息を切らせる私を見つめている。
きつく締め付けられた咽の奥、茹だる胸から残された何かを絞り出した。
「お願いします、桃枝さんを助けて!!!!」
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