まさかの新記録達成。本屋さんへの滞在時間、およそ五分。
いつもなら平気で二時間も三時間も行ったり来たり、棚の間をブラブラ徘徊して回り、手ぶらで店を出ることもしばしば。
それでもって自動ドアをくぐると、妙に喪失感染みた哀愁を漂わせているのだけれども、今日は特別憂鬱に呑まれて外の空気を吸い込んだ。
「本当に何も買わなくてよかったの?何か欲しい物があってきたんじゃない?」
「えっと…うん、大丈夫です……」
そう?と首を傾げて私を引率する桃枝さん。
相変わらず私は恐怖というか、これから何が起こるのだろうとビクビクしながらその影を踏んでいる。
人気のないところに連れて行かれて仕返しをされるんじゃないだろうか?なんて脳裏に浮かべてしまう。
嘘吐きでごめんなさい。
実はそんなこと、多分無いだろうとわかっていた。
彼女の口元や目元に憎しみや憎悪が泳いでいないことくらいはちっぽけな私にもわかります。
『どうして謝るの?』
その言葉の真意は不明だけれど、なんとなく彼女は私がイメージしていた様な人ではない気がしていた。
もっとクールで人当たりが悪いような印象を持っていた、と言っても、学校では実際にそうなんだけど、桃枝さんの纏う空気はずっと優しさに溢れているように思えたのだ。
まったく掴み所の無い、だからこそ現在ワタクシは不安で一杯なのですが……
「此処でいいかしら?掛ければ?」
白い指に促されて石でできた低いベンチに腰を下ろした。
幼い頃よく訪れた小さな公園。懐かしくもノスタルジーに浸る余裕など無く、落ち着きも無くソワソワと肩を揺らすことしかできない。
「あなた、あの…何だっけ?橘さんだっけ?あの人と一緒にいた娘よね?」
またもや背筋がビクンと跳ねて、この寒気の下ドロリと汗が零れだす。
「そ…そうです……」
やっぱりね、と鼻を鳴らす彼女の横で硬直しきっている私は、桃枝さんの顔も見れないまま疑問を吐き出した。
「お、怒ってないんですか……?」
「えっ?どうして?」
本気で言っているのだろうか?微塵も偽造痕が見られない透き通った声にますます不信感は強まる。
「だ、だってあんなことしちゃったじゃないですか、私達」
「あなたは立ってただけでしょ?」
ようやく首の運動能力を取り戻した私の瞳にはあくまで驚きの表情の彼女しかとらえる事が出来ず、あぁ、桃枝さんは心からそう思っているのだなと半ば安心して、残りは呆れとなって冷えた胃袋に沈殿した。
「それはそうですけど…」
「それにあなたが助けてくれたんじゃない?あの一言で騒ぎも治まったんだしね」
確かにあの時勇気を振り絞ってみたんだった。激しく笑う膝小僧の振動を今でもうっすら覚えている。
最初で、多分最後の口答えは良い思い出だ。墓場まで持っていくよ。
「助けたのは佐伯君ですよ…」
その佐伯君のおかげで橘さんは近頃ご機嫌斜めを通り越して垂直にぶら下がっているんですけどね。
彼の噂、きっとウチの高校じゃ知らない人なんていない。橘さんだって例には漏れないだろう。
そんな佐伯君が桃枝さんのボディガードみたいに今でも彼女を守っている。それが橘さんには大変気に入らないことで、舌打ち量産の原因となっている。
「まぁそう言われればそうなんだけど」
ふふふっ、と桃枝さんは吐息を漏らした。
彼女の笑顔を見たのは初めてで、しかめっ面もそうだけどやっぱりこちらもとても可愛らしく、私の唇からもホッと空気が逃げた。
「ところでそのハジメ…って言ってわかる?」
「うん、佐伯君のことでしょ?」
佐伯ハジメ君。彼女は名前で呼んでいるんだ?確か芦原さんは『イチ』って呼んでたから、彼を名前で呼ぶのは桃枝さんだけかもしれない…
「そう。あなたが言っていた昔のハジメの話って、何?」
そうか、転校してきた彼女は知らないのか。親しい友達も多分いないだろうし、佐伯君自身からその事を聞くこともないだろうから当然と言えば当然。
私が話して良いものだろうか?
「……あの~…昔、ね?佐伯君ちょっと不良だったっていうか…」
かなりキメの細かいオブラートに包んで呟いた。
黒い昔話をする必要も無いでしょう?私の余計なお喋りで二人の境界に溝でも出来たら大変だ。
何より今の彼は全然そんなことないし、少し怖いけど多分良い人だよ…ホントは凄く怖いけど。
それに……ね…
私は佐伯君に………
「なるほどね。確かに悪人顔よね、あいつ」
冷気で張り詰めた風の中で彼女の笑顔だけが綻んでいる。
なんとなく、佐伯君の全てを…と言っても私が知ってる本当に一握りのことなんだけど、その全てを伝えても関係は揺らがないだろうと思えた。
あぁ、綺麗だなぁ桃枝さん。女の私でも恋に落ちてしまいそうなその美貌。
これだけ美人だったら絶対不自由しないよ。女の子に嫌味を叩かれても陰口を言われても、男の人達がほっとかない。助けてくれる。
実際に今だって…
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ああぁ、また嘘を吐きました。ごめんなさい。ジェラシー感じてるの私の方じゃん。
佐伯君がそんな邪な気持ちで彼女の側にいるワケじゃないなんて、わかってるよ。
死にたい死にたい死にたい。
生きてる価値無いよ、こんな女。腐りすぎて心まで荒んでる。
生まれ変わったら今度は桃枝さんみたいに裏も表も真っ白に綺麗な、澄み切った人間にして下さい、お願いします神様。
…でも、ね?仕方がないところもあるんだよ?
私を助けてくれるのは、お祭りの温い水槽の中から掬いだしてくれるのはおそらく彼しかいないんだから。
もう一度、手を引いてこの暗く長い穴蔵から連れ出して下さい。
佐伯君、どうかお願いします……
……だから少しくらい嫉妬してもいいでしょ?いいよね?
ただ、私には差し伸べられた手に縋ることは出来ないのです。そんな資格、無いんです。
だからさっきの言葉も聞いていない事にして欲しい。少し甘えがでてしまっただけです。
全く以て甚だしいよ、盗人猛々しいとは私のことだ。
そうだ、私は苦しみ続けるべきだったんだ。それをよりによって佐伯君に期待するなんて、やっぱり私は最低だ。
仁科莢香は幸せになる価値の無い人間。
だって私は×××××××××だから。
「あの……桃枝さんは佐伯君のこと、好き…なんですか?」
どれくらいの時間自分の中に籠もっていたかわからない。何分間も黙り込んでいたかもしれないし、それは一瞬だったかも知れない。
そして一つの結論に至った私は、震えながらそう問いかけた。
「えっ?…うーん………」
即答を得られず考え込む彼女を横目に見る。正直これは意外だった。答えは決まっていると思っていたから。
「えっと…好き……だけど、正確には『好きになって欲しい』かな?」
はにかむ彼女は普通の女の子で、普段感じられるミステリアスな雰囲気は脱ぎ去られていた。こんな桃枝さんも当然魅力的で、可愛らしさも兼ね揃えた完璧な美少女が目の前にいる。
「……そう…きっと佐伯君も桃枝さんのこと、好きですよ」
そうだと良いわね、と彼女が頬を朱らめる隣で、罪悪感に呑まれながら唇を噛み締める。
また私は嘘を吐いた。それも今度は言葉にしてこの世界に解き放ったその塊。
その恋に絶望的な障壁が存在することが私にはわかっている。きっと彼を知る誰に話してもその答えは変わらない。
でも、桃枝さんはどうだろう?もう知っているのだろうか?
芦原百さんの影が佐伯君には大きく、そして濃すぎる。
彼女はこの世を去って、佐伯君の中で神格化してしまっているのは明らかで、彼は少しだけ過去へ引き擦られてしまった様に思える。
どれほどの想いが佐伯君の中にあって、二人の絆をつちかっていたのか、それは容易に想像できるモノではないけれどでも、でも感じないわけがない。見えないわけがない。聞こえないわけがないんだ。佐伯君の悲しみが肌を刺さないわけがない。
その刃が突き立てられる度に私は息も出来なくなる。血が退く。やっぱり死にたくなる。
「私も、桃枝さんのこと応援するから………頑張って…下さいね?」
私の出した答えはこれだ。
近頃になって次第に増えてきた佐伯君の笑顔、口数。それは桃枝さんが隣にいるとき。
下校の道、食堂、廊下、教室etc...
たまに見かける二人はとても楽しそうに何か話していて、思わず目で追ってしまう私はその度不思議な気持ちになる。
桃枝さんの声、佐伯君の吐く息の音だけを背中で感じ取って、いつも顔を背けていた。
だから、決めた。
私が出した答え。
芦原さんが佐伯君に残した傷痕を桃枝さんに埋めてもらう。
そうすることが私の償いであり、きっと義務なんだと言い聞かせ、先程呟いた言葉に桃枝さんは恥ずかしそうに
「ありがと、でもとりあえず気持ちだけ頂いておくわ」
と返事をした。
彼女の恋を手伝うことで二人が幸せになれば、僅かでも私の罪が消えるかも知れない、なんてふざけた考えがあったのだろうか?
私は何もせずにただ手を添えるだけ。汚いな、相変わらずこの人間は。
でも他に出来る事なんて無いから、だから自分に出来ることをすればいいなんて都合のいいことをほざくつもりはないけれど、決めたんだ、私のすべき事を。
「ところで」
心を固めるその横で彼女は声を滑らせた。
背筋を震わせる私に彼女は更に続けた。
「あなたも二年生でしょ?そんな風に敬語なんて使わなくていいわよ」
にっこり笑う整った顔立ちに私も笑みをこぼした。
「桃枝零です。あなたは?」
「あ、三組の仁科莢香で……だよ?」
よろしく、と頬を弛める彼女を見て私はまた胸が痛くなった。
どこまでも穏やかな時の流れと桃枝さんの心。
何度思い返しても飽きはしない私の汚さを、より際立たせているようでなんだか辛い。
ただ、とても暖かかった。久し振りに感じる温もりを胸に抱きながら俯いてしまった。
「なんだか桃枝さんって思ってたのと違う人だったな。てっきり怖い人かと…」
「それ、似たようなことをこのあいだ言われたわ。実は今日は機嫌がとてもいいの。何故だか知りたい?」
ニヤリと笑うと彼女はポケットから携帯電話を取り出した。
「いいでしょ?昨日買ったの。まだ全然使い方わからないんだけどね」
子供のようにはしゃぐ桃枝さんを見て私はまた笑った。
楽しかった彼女との一時。
その時私は生きている気がした。
そして気がついていなかった。
取り返しもつかない愚かな私の行為に。
底の見えない程深い過ちを犯していることを。
やっぱり私は、此処にいてはならない存在だった。
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