『あ、あの…佐伯君…ごめんね…』
目の前に広がるミルク色の天井。日の出の遅い冬の朝にまだグレイの影を帯びて私を見下ろしている。
目覚まし時計の頭を軽く叩く。けたたましいアラームを聞いたのはいったいどれほど前のことだっただろうか?
布団から出たくない。それは肌を刻む鋭利な寒さのせいもあるけれど、何より夢の世界から帰る事が苦痛で仕方なかった。
またあの夢を見たのか。
二週間程前のあの日の出来事を幾度と無く繰り返し、その度に喉元を過ぎきらない茹だった鉄の玉を口の中で遊ばせている。
お母さんの呼ぶ声がして、唇を噛み絞めながら冷えたフローリングに足を擦り付けた。
部屋の中なのに、息が白いや…
まるで私の心のように儚く溶けるこの吐息は、真っ黒に汚れたこの体から吐き出されたものだととても思えなかった。
~NOW LOADING~
校舎に踏み入ってから後悔する。いつものことだ。
何を悔やんでいるのか?なんだろう…色々、全て。
夢に見るあの日から、橘さんの機嫌は目に見えて赤黒く沸騰しており、その隣でビクビクと無駄な負担をハートに与えながらもしかしたら涙を滲ませているかもしれない、そんな情けない私は佇み、佇み、佇み…
「ちっ」
彼女の舌打ちにまた体が凍える。
その一挙手一投足が私を支配していた。正直、疲れを通り越して命を削っている気分。
じゃあ何故その傍らにいるのか?何故胸の中を文句で埋めながらも肩を震わせているのだろうか?
答えは怖いから。
遠くにいても怯えるのだから、どうせなら身構えていたい。暗闇の奥から得体の知れない魔物がこちらを睨んでいる、そんな状況よりずっとマシだろう。
何よりこうやって強い人間にへつらっていれば、少なくとも壮絶な暴力の炎で身や心を焦がすこともあるまい。
小さく脆弱で拙い、そんな愚かな私はこんなことでしか自分を守れない。仕方がないでしょう?私はこんなにもか弱い女の子なんだから……
そしてそんな自分が死にたくなるほど嫌いな私は、死ぬ勇気なんて捻り出すことが出来ないまま腐った心と同居しているのだ。
「仁科ぁ、喉乾いた。ウチファンタでいいや」
変な思考を回帰させる私に不意打ちが訪れ、周りのみんなも口々に注文を告げた。
「わ、わかった。すぐ買ってくるね…」
はやくしてよ、と橘さんの尖った声色に背筋をつつかれながら急ぎ足に教室を出る。
ちょっと安心している自分が情けない。あの輪から一時でも離脱出来て呼吸を整える猶予が与えられたのだと思うと溜息が出た。
何度でも言おう、胸の奥でなら。
『嫌だなぁ…』
あのグループに属していることが。
ずっと神経を擦り減らし続けることが。
自分を偽ることが。
弱い自分が、ずるい自分が……
何故彼女達は、橘さんは他人を攻めるのだろう?
気に食わない人種を排斥しようとするのだろうか?無視だとか、他にとれる手段はきっと沢山転がっている筈なのに、どうして攻撃的な解決法をいつも腰に携えているのだろうか?
力を有すると人間はそうなってしまうのかな?
彼氏が有名な不良だったり、橘さん自身リーダーシップもあって人をまとめる力も持っているけれど、中途半端に優れた器だともっと上を目指したくなるものなのだろうか?より魅力的な地位にいる人物を蹴飛ばしたくなるのかな?それとも踏みつけたくなるのかな?
桃枝さんのように、綺麗で目立つ存在にジェラシーを煮えさせるようになるのかな?
私みたいになんの中身もないモブキャラからしてみれば、彼女には強い憧れしか抱かないものだけれど。
あの日の彼女も私には輝いて見えた。
あんな風に啖呵をきってみたい、なんて正直凄く羨ましくて、桃枝さんみたいになれればどんなに自由なんだろうと今では四六時中耽っている。
後の仕打ちや報復や、降り懸かるかもしれない大きな火の粉なんて意にも介さず、心を吐き出すのはどんなに気持ちいいことだろうか?
勇気を出せない……出す勇気も持っていない、そんなどうしようもない私には絶対に味わうことの出来ない快楽に違いない。
物思いに耽るのは私の悪い癖で、気がつけば自販機の前。何枚もの硬化を機会に滑り込ませ、何度もボタンを押す。
山の様に積まれた缶を抱えてよろよろと歩いていると、不意に話し声が耳に流れてきた。
「ねぇ、聞いた?三組の吉田さんが例の幽霊見たんだって」
私の肺にジュースよりも重たく冷えた空気がのしかかり、嗚咽と吐き気が胃を鷲掴みにした。
『聞きたくない聞きたくない聞きたくない』
耳を鬱ぎたくなるその話題に胸を焦がされて、噂をする三人組を通り過ぎても速めた脚の動きを緩めず唇から滲み入る血を飲んだ。
「そんな幽霊、いないわよ」
耳の後ろで聞こえたのは、瑠璃色の鈴の音の様な桃枝さんの冷たく透き通った声。
井戸端会議を散らす、そのくらいの勇気も私には隠されていない。ただ逃げるだけ。
人の目や自分への評価をマイナスに振り切られないように必死な私とは対照的に、その心の赴くまま歩く桃枝さん。
同じ敷かれたレールの上を走るにしても、到達する先はきっと天国と地獄。
幸せになるのがどちらかなんて、誰が見ても明らかに違いない。
だから彼女は魅力的で、私は腐った泥人形のよう。
だから佐伯君は桃枝さんに肩を貸したのだろう。
誰も助けてくれないなんて、自己中心の塊。
救いの手を差し伸べるだけの価値が無い私が悪い。わめくな、だったら強くなりなよ、仁科莢香(にしなさやか)。
あぁ、力が欲しい、強くなりたい、桃枝さんみたいになりたい。
芦原さんみたいになりたいーーー
ほら、また願うだけ。
祈りだけで全てが解決?馬鹿馬鹿しい。
わかっているのに何もしない、わかっているフリをしているこんなヤツが一番愚かで、救いようのない人間なんだよ。
やっぱり自分は駄目な存在だと、だから仕方ないんだと……自分を卑下しだしたら止まらないな。謙遜とかじゃなくて、腐りに腐って養分にもなりはしない私。
ほら、やっぱり自虐はとまらない。
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