『気持ちがこもっていない』と、そう言われただけで零が僕の心臓を掴んだ気にでもなっているのだと、今思えばこの上なく馬鹿らしい考えだが、人間が出来ていない僕はそんな思い込みで逆上してしまった。
人は過ちを犯すことがある。しかし、有名な諺にあるようにその失敗は成長への糧となるものらしい。それが出来ない人間には進歩は見られない、と。
じゃあ僕は……
ここで一つ昔話をしよう。とある愚かな少年の話を---
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少年には仲の良い女の子がいた。その娘は少年にとって姉の様で妹の様で、いつも二人でいる彼等は幼さもあいまってか、深く堅い友情が互いの胸を繋ぎあっていることを誇りに思い、喜びと感じていた。
時の流れのせいであろうか?
気が付けば少年は泥沼の淵に立っていた。
二人が中学生になってすぐのことだっただろう。
他の学校の奴等となんて馴れ合えるか、という下らない幼稚な少年のプライドも何時しか腰を上げ、彼等にも新しい友人が出来た。
そして彼等の鎖は、紅い糸は引き千切られていった。
「イチ!またそんな所に座り込んで!こんなガラの悪い人達と付き合っちゃダメでしょ!?」
公園の入り口にたむろする少年達は下品な笑い声を上げた。
「こんなって、酷いな百ちゃんは」
少女はうるさい!と、眉をつり上げる。それを見て彼等は更にへらへらと騒ぐのだが、ただ一人、『イチ』と呼ばれた少年だけは面白く無さそうにどこか暗闇を見つめていた。
「イチくーん、百ちゃんなんとかしてよ」
髪の長い少年が冷やかすように声を上げ、その瞬間初夏の空気が凍り付いたのが彼等には手に取るようにわかった。
頭上にハテナマークを漂わせているのは茶化した男ともう一人。
「え?どうしたの?」
少しタレがちの大きな目をキョロキョロさせる少女。毛先に癖のある栗色の髪をぬるい風に揺らせている彼女に一人がそっと耳打ちした。
「百ちゃん以外は佐伯君の事、『イチ』って呼んじゃ駄目なんだよ」
そう言い終わるのが早いか否か、何時の間にやら歩み寄っていたイチの鋭く鉛のような蹴りが、長髪男の顔面を捉えていた。
「だれが『イチ』だ?言ってみろ、末崎」
土の上に倒れ鼻をおさえる少年をイチはお構い無しに足蹴にし、靴を濡らす赤い血に何の感情も抱いていないかの様な光を二つの瞳に映している。
「ちょ、ちょっと!?何してるの!?イチってば、やめなさいって!!」
必死で少年の背後からそれを制しようとしがみつく少女に男達は情けない声を漏らす。
「やめときなって、無駄だよ。俺等が何人いても止められないんだから」
そんなやり取りに耳を貸すこともなく、少年は振り子の鎌の様にその足で何度も刻み続けた。
「イチっ!!!」
我に返ったのか疲れたのか、それとも飽きたのか、フイっと血塗れの末崎から視線を上げた残酷な少年は
「帰るわ」
そう呟くと背中に顔を埋める少女を振り払い、気だるそうに歩き出す。
「待ちなさい!イチ!!」
暗雲と共に吐き出された少女の言葉なんて聞こえないふりをして、少年は足を止めることも、振り返ることさえせずに踵を引きずった。
「……ごめんね、本当にごめんね…イチ、根は良いヤツだから……だから…」
遙か後方で聞こえる微かな悲痛が足元を掬いイチは足をもつれさせる。
眉間に皺を寄せる少年は大きな舌打ちを夕闇に響かせ、血よりも赤い太陽に染められた眼球を剥き出しにしたまま再び面白く無さそうに暗黒を見つめてた。
何故少年はこれ程までに非道になってしまったのか。おそらくそれに理由なんて無かった。
幼少時代もお調子者ではあったが人を傷つける事なんて無かった。幼なじみの少女にあんなあたり方をする事なんて、絶対に無かったのに意味もなく彼女を戒む。
今僕の目の前にこいつがいたとしたら、迷わずぶん殴ってやるところだ。
負けず嫌いな性格は凶暴性に、落ち着きは冷酷さに羽化して彼は蛾になった。いや、ゴキブリ以下の糞野郎に。
悪ぶる事が格好良いとか社会に不満があるなどの考えがあった訳では無い。ただ本当になんとなく。
何かに苛立ち、なんとなく彼は黒く染まっていった。
夏が始まる頃、イチは有名人になっていた。
仲間内や校内で暴れるだけでなく他校の生徒にも疎まれるようになり、心から友と呼べる人間などすっかりいなくなってしまった。
「何?その髪の色?似合わないから戻しなさいよ」
ただ一人、芦原百を除いて。
家族からも見捨てられたイチに彼女だけは昔と変わらないように世話を焼き、声をかけ、心を通わせようと必死に駆けずり回っていた。
そんな百でさえ、僕は煩わしく思ってしまっていた。
ある日、こんな態度の僕を変な階級制度が抜けきらない先輩方、つまり二、三年生の不良連中から呼び出され僕達は嫌と言う程殴られた。
ところが反省というか恐怖というか、それらの感情どころか悔しい等という気持ちは全く僕を急かすことはなく、ただ痛む体の節々と何時もより三割程度増しの虚無感が肩の上で喘いでいた。
自尊心なんてモノを抱えていなかったであろう僕は、口々に愚痴や嗚咽を漏らすツレを横目に呼吸をするだけだった。
次の日、僕は報復にでた。
行動と胸中が矛盾で捻れた関係となって意味も分からない。何がしたいのかはわからない。気が付いたら周りは血の海だった。
昨日の様に圧倒的な人間の絶対数の差が無いのなら、この時の僕は誰にも負けなかった。中学生ではたった一、二年の隔たりが大きな体格差となってはいたが、僕が負けることはなかった。
でも僕はあらゆる物事から敗者だった。
喧嘩で膝を折ることが無くても、幾ら腕っ節が強くたってそんなのは溜息一つ、嘲笑一つで埃程の価値も持たないくだらない事であるということに実は気付いていたのかもしれない。
僕は誰よりも弱い存在だった。
善の反対は悪。
強の反対は弱。
好きの反対は無関心…
無気力、無関心の塊だった僕は世界から好まれない人間で、でも無関心だからそんなことどうでもよくて、だけど僕を想ってくれている人に向けた感情は違うモノだった。
「ハジメ」
拳の皮を裂き、肉を削り骨を砕いたその日の帰り道、薄暗い道端の真ん中で幼なじみの少女は何時もとは違った面持ちで僕をとおせんぼしていた。
そんな呼び掛けを無視して見慣れた姿を瞳に映さず通り過ぎる。半分閉じた僕の瞼は彼女を視界に交ぜたくないからだった。
百の肩まで伸びた柔らかな髪だけを目の端に絡ませ、後僅かしか一緒に過ごすことが出来ない彼女を背に只歩を進める。
この時百の未来を知っていたら、こんな風に腐っていなかったかもしれない、多分。
「ハジメってば!!」
何時もの様に『イチ』と呼ばない百は後ろから僕の腕を掴み、既に涙目だった瞳から浅黄色に澄んだ滴を幾つも流した。
「『イチ』って呼ばれるのが嫌だったならもう言わないから……謝るから…だから元のハジメに戻ってよ……お願い…一緒に帰ろうよ……」
腕にすがる百はこの心中を何も知らない。当たり前だ。僕にだって何もわからないのだから。
決して彼女のせいだったとは思わない。自分で勝手に濁って、勝手に一人になっただけ。
この時の『一』は孤独を表していた。
百のこんな姿を見るのは初めてで、いつも明るくてバッサリした明朗な彼女は弱々しく溺れる女の子にしか見えなかった。
それでも僕は屑だった。
正確に言うと、僕があの強い百を、勇者をただのお姫様に変えてしまったのだということに対する罪悪感や自分を許せない気持ちがあったのかもしれない。そうであって欲しい。あんなに無価値だった僕にでも、せめて百にだけはそんな感情を隠していたのだと思いたい。
でも、今どのように後悔しようとも僕は百を傷つけた。
「うるせぇよ!触んな!!」
無理矢理彼女をふりほどき、おそらく久しぶりに声を荒げた僕を驚愕で拡大した瞳で百は見つめた。ここまで堕ちているとは思っていなかったのだろう。震える唇から僕の名前を小さく何度も伝わせている。
「邪魔なんだよ!!お前は俺の何なんだよ!?なんか特別な存在にでもなったつもりか!!?」
口から吐き出される言葉は今でも僕を死にたくさせる。
そんな質問、答えはYESに決まっていた。当時の僕でも十分承知していたのだ。百の存在の大きさ、鮮やかさなんて。
『イチ』と呼ばれる事が嫌な訳無いじゃないか。
一緒に帰りたく無い訳無いじゃないか。
二人で笑い合いたいに決まっているじゃないか。
離れたくないに決まっているじゃないか。
僕の言の葉が、どれだけ百を傷つけるか、わかっていたじゃないか。
そんな簡単な事も把握できていなかった僕は、この瞬間生きる意味と価値を失ったと思っている。
この日、この時から彼女と僕は言葉を交えることも互いの存在を確かめ合うことも無くなった。
その後どのように別れたのかも、他に何か口論があったのかも覚えていない。
妙な高揚感と吐き気と焦りだけが胸の中で蜷局を巻いていたのは僕の人生の汚点。
一年以上後、再び百と笑顔で挨拶が出来る日が来るなんて思ってもみなかったのだが、その話はまた何時か次の機会に。
ここら辺でつまらない僕の回想を終えよう。
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