白に癒された傷も心にイバラが残っていてはすぐに爪痕を重ねてしまう。その棘を折るためにしなければならないこと、すべきことを此処何日か考え続けている。と言ってもそんなことは以前から明白で百を人々の記憶に刻む、そんな些細でとても難しいこと。
人間というのは常に新しいものに目を奪われて今までのモノをつまらなく感じる生き物だ。それが同種のものなら尚更で、四六時中握りしめていた携帯電話も新機種を購入したらもう目覚ましくらいにしか使わない。
百の場合もそれが顕著に現れている。
転校生、桃枝零の存在感というのは異様なモノだった。会話にその名が出てくることも度々、様々な噂もチラホラ。そんな注目の桃枝だが、彼女の周りには誰もいない。孤独と言うよりもひとりぼっちと表現した方がいいかもしれない。違いは分からないけれど。そのせいで妙な憶測が飛び交っているのだが、正直僕には面白くなかった。
彼女が目立てばソレだけ百の影は薄まっていくのだから。そのためであろう、僕も彼女に近づくことはなかった。
そんな中広まった噂
『芦原百の幽霊を目撃した者がいる』
転校生の寡黙な少女の話題とそのオカルトな話で校内は持ち切りだった。
そのくだらない新興都市伝説のおかげで僕の胸のつかえが多少軽くなったと考えると複雑な心境になる。どうせそんな囁きもすぐに絶えてしまう。また君の残像は掻き消されてしまうであろうから。安心できるのはほんの束の間、溜息を吐いている間だけだ。
まさしくその通りだった。
その幽霊の正体は転校生ではないか、という根も葉もない推測が飛び交い始めたのだ。
いよいよ百の面影は桃枝に塗り潰されようとしている。
意味が分からない。僕には二人の共通点というものが全く見あたらず、歯痒く米噛みを押さえるだけ。
だって考えてもみてくれ。桃枝は誰が見ても美人で儚げな冷気がそれを取り巻いているような女生徒だ。百は麗容とは言わないまでも結構可愛らしい顔立ちでそれなりに男子からの好意の念を受けることもあった。しかし、彼女は活発な少女で何より人望に満ちていた。いつも一人で頬杖を突いている桃枝とは正反対、男女共に人気があった。花に喩えるなら向日葵のようで、桃枝はさしずめ彼岸花だろう。それに桃枝ほどスタイルも良くなかった…これは妄言だな。
君の消失と彼女の出現、そのタイミングだけで人は因果など無視する。
唇に血を滲ませながら桃枝に目をや何時も通り何を考えているか分からない無表情を顔面に張り付けて肘を突いている。ただ、その視線が前席の花瓶に向けられているように思えた。僕が先日新しく挿した花が揺れているのはもしかしたら彼女の眼力によるのかもしれない。
桃枝の耳には噂が届いているのだろうか?如何せん変化の少ない彼女の挙動からはソレは読みとれない。
話を戻して僕は百の悪口なんて聞いたことも無かったし、彼女の欠点らしい欠点も思いつかない。意固地なところやお節介な部分もあったけれどそれは君の長所だったと思っている。
対照的に桃枝は多くの女生徒から好ましくは思われていないようだった。その大部分は嫉妬によるものである様だったが、何より他者と慣れ親しもうとしない態度が気に入らないらしい。気取っているのかと、口から棘を零す女子を目にしたこともある。彼女の胸中など想像出来たものではないし興味もないけれど、そんな桃枝が百と重ねられているのかと思うと舌打ちをしてしまうこともしばしばあった。
何より君の代わりになる存在などありはしないと確信していたのだから。
「桃枝さんちょっといい?」
噂をすれば何とやらだ。ウチみたいな進学校にも多少自己主張が強い人間という奴がいるもので、今声をかけた橘もそれにあたる。女子の中では中心的な人物ですなわち桃枝を快く思っていない筆頭でもある。今も友達なのか仲間なのか、はたまた子分とも見て取れる女子数人で行列を作り寡黙な転校生の机をぐるりと囲んでいる。苛立ちを隠そうともしないその集団はにやけている者、額に青筋を浮かせようとしかめっ面に必死な者とバラエティに富んでいる。それを前にして桃枝は臆する様子もなく軽い溜息を遊ばせただけだった。
「無視しないでくれるかなぁ?昨日槇君から手紙もらったでしょ?」
橘が神経剥き出しの目を細め座っている彼女を見下ろしている。桃枝はと言うと面倒臭そうに
「…それが?」
と、視線も返さずに呟く。半開きになった瞼は呆れとも眠気ともとれる。
「それ、どうした?」
「返したけど。そのまま」
そう終わるや否や、ノーモーションで机に両掌を叩きつけた橘はデコとデコがキスをするのではないかと言う距離まで顔を近づけ
「あんまり調子にのんなよ?」
つり上げた目尻と凄んだ声。先程から教室に張り巡らされていた緊張の糸は弓でも射れそうなくらいにピンと張っている。
誰か止めねぇかな。
なんて考えていると鬼の様な形相の女は周囲の注目など気にせずさらに続けた。
「何?お前自分が可愛いとか思ってんの?黙ってお嬢様気取ってんのかよ?青白い顔して、幽霊かっつーの」
取り巻きの女子連中が打ち合わせでもしていたかのように一斉にせせら笑う。
僕は耳をピクリと動かしまた舌を打った。
「最近変な噂が流れてるけどさ、あんたのことでしょ?ねぇ?その幸薄い顔が幽霊に見えるんだよ!」
今度は大きな笑いが巻き起こるがこれも仕組まれたものだろう。僕の頭の中では赤い導線を切ろうか、それとも青にしようか…どちらか片方にペンチを向ければ即爆発、そんな状態。
「残念だけど」
今度は桃枝が唇を動かす。橘の充血した眼を見据えながら静かに、しかしハッキリと言った。
「零は生きているし自分のことを可愛いなんて思ったことはないわ。ちょっと美人なだけ。話が終わったのならその顔さげてくれない?ファンデーションの香りがキツイのよ、あなた」
言うねぇ、転校生。独りでニヤリとしながら心の中で拍手を送った。クラスの連中や野次馬達は不発だった打ち上げ花火の筒を覗き込むかの様な面持ちで息を呑んでいる。
橘の頭部に血液が集中していく様は見事なもので、それに気付かない奴がいるとしたらそいつは相当図太い人間だろう。口の端を細かく刻ませて瞳孔を開いた彼女は将に火山の噴火の如く鼻息を荒げ、マグマの様に顔面を赤らめている。
簡単に言えば『キレてる』状態。
「死ね」
次に橘の発した言葉。それはけたたましく鳴り響いた雑音に掻き消され、周囲の人々も突然の大きな音にビクリと背中を震わせて僕の方へ首を回す。そして、ようやくその音が僕の蹴り飛ばした椅子が机達と共に奏でた耳障りなものであったことに気付いたようだった。
「それ、百の花だろ。触んじゃねぇ」
橘が手に取った細い花瓶。それで何をするつもりだったのかは知らないが、怒りのリミッターを振り切るには十分だった彼女の行動、『死ね』の一言。コイツ等はどこまで君を愚弄すれば気が済むのか。
あぁ、面白くない。こんな形で君を僕の日常に留めたい訳じゃない。僕の考えている君の『生き場所』は僕の周囲には無いんじゃないか、残念ながらそう思える。
嫌な沈黙の中、僕より先に怒髪を空へ向けていた橘が口を開いた。
「何?佐伯、芦原の事まだ引きずってんの?じゃあこう思わない?芦原の代わりがどうしてでこんな女なんだって。コイツが死ねば良かったじゃん?だからこの花も桃枝のほうが相応しい---」
今度は机が宙に舞う。今し方よりさらに慌ただしい振動が耳をつき、ギャラリーの胸臆が息となってそこら中に漏れた。
「誰が誰の代わりだよ?」
拳よりも言葉が出る分僕はまだ幾分か冷静なのだろう。ただ、君への想いが怒りへ走り出した今、それは自分のための憤激となってしまっている。
「も、もうやめとこ、橘さん」
橘の取り巻きの一人が小声で呟く。そうしてくれ、僕は後一言も辛抱出来そうにない。
「仁科(にしな)、あんた佐伯にビビってんの?私の彼氏のこと知ってるでしょ?」
聞こえよがしにそう言う橘は得意気な顔で僕を見つめた。確かここら辺で有名な不良なのだとかどうとか、そんな事を自慢げに話しているのを耳にしたことがある。
だからどうした?
「だ、だけど人も集まってきちゃったし、昼休みももう終わるし……それに佐伯君の中学校時代の話、聞いたこと無いの?」
嫌なことを思い出させてくれる。
彼女の把握しているであろう僕の素行はきっと事実であるし、人から忌み嫌われるには十分過ぎる内容だ。だからその事でどんなに白い目を向けられようと、それは仕方のないことだ。それを受け入れるつもりはある。ただ今でも僕がまだそんな奴だと蔑まれるのはやはり少し胸が痛い。
橘はしばらく考えた後舌を鳴らし
「桃枝も佐伯も知らないからね?どうなっても」
そう残して教室から去っていった。その後ろをぞろぞろと着いていく女達。
「あ、あの…佐伯君…ごめんね…」
仁科と呼ばれた大人しそうな女子は最後にそう頭を下げて最高尾を駆けていった。
僕に言う言葉じゃないだろう?
苛立ちはまだ燃えたぎり喉の奥を炙っている。桃枝はと言うと何事も無かったかのように次の授業の準備に取り掛かり、野次馬達も各々の教室へ引き返していく。
~NOW LOADING~
空は暗黒ではなく濃紺で、灰色の雲達は風に吹かれて急ぎ足で流れていく。満月が明るく綺麗なその青い絨毯には星達も輝いている。月光に掻き消されることもなくオリオン座が僕達を見下ろし、薄い雲から月を透かして見上げる僕は日の入りを急かす冷たい風も心地良く感じていた。
大きな雲塊はその足も遅く、ゆっくりと夜空に歩みを残していく。その上に君は立っていて僕達を見下ろしているのだろうか?僕のこの姿を、行いを見てどう思っているのだろう?褒めてくれるのだろうか?微笑んでくれているのだろうか?
僕の吐く白い息は空に昇る前に散り散りに風に遊ばされて消えていく。君の足場を作る雲に成れ、そう願いを込めて頬を膨らませる。
「佐伯君…ありがとう」
一歩遅れて僕の隣を歩く彼女は静かに呟き、僕も小さく返事をした。
「……佐伯君のこと…好きだから」
ハッキリとした声に今度は何も答えることが出来ず、僕はもう一度だけ大きく息を吐いた。
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