僕の幼なじみが旅立ってから幾日か過ぎた。暗雲立ちこめていた神経の海の荒波も少しずつ落ち着いていき、小さな舟でも漕ぎだすことができるほど穏やかなものとなっている。
ただ、その海はとても深く、冷たく、青く、白々しく広がる薄い灰色の空との境界線が見切れることのない海面に僕は立っている。
まだ青い心を塗り変えることはできないけれど、その群青を受け入れる準備はできた。そして決めたんだ、君を忘れない、と。
誰かの記憶に残っているのなら、君はまだ生きているんだと僕は思える。生きる糧を与えているんだと僕は誇れる。何よりも僕はその『誰か』になりたいと、なるんだと、そのために君との思い出を脳裏に、別れの悲しみを胸に刻もう。その傷跡が薄れたら、尖った血液で何度でもなぞり返してやる。何度でも、何度でも、何度でも。
しかし時の流れは残酷とはよく言ったもので、百の影が薄く引き伸ばされて日常に溶けていく感覚を肌に擦り込みながら僕は街の音に耳を傾けている。
教室のざわめきは相も変わらず、僕の愛も変わらず…なんてな?そんな風に陽は昇り月は昇り沈んでいき、さらに時は流れていく。
でも、仕方がないなんて言わない。『誰か』を一人でも増やせるように、減らさないように僕に出来ることを考える。君が生きられる場所を少しでも増やせるように。
そんな僕の高揚をせせら笑うかのように、彼女は長い髪を靡かせた。
「桃枝 零(ももえ れい)です。宜しくお願いします」
頭を下げるかわりに軽く顎をひいたその転校生は、自らが発した言葉とは裏腹にかなり厚く厳つい壁を僕たちとの間に聳えさせているような、そんな気がした。その美しい容貌にクラスメイト達の心奪われたのはまさしく息を呑む間の出来事だっただろう。しかし僕にはその綺麗に整った顔立ちが、より一層近づき難い雰囲気を醸し出しているように感じられ、さらに孤独を伝えている気がした。あくまで気がしただけだ。
人形のように整った顔をピクリとも動かさず、猫のような大きな目からは視線を零れさせたままの彼女は教室のざわめきなど耳に入っていないようで、腰まで伸びた長い黒髪も艶を滲ませるだけ。新しい学友達への興味など微塵も無いようだった。
しかし逆はしからず、興奮する生徒達を見ていると、何故だか不快感が爪先から駆け上がって来るような、そんな苛立ちと擦れ違った。そして彼女の名字が俺の眉間に皺を寄せる。
「みんな静かにしろ。じゃあ桃枝は…そうだな、とりあえずあそこの席にでも…」
「あれは百の席だ!!!」
担任の指さした先に何があるのか、そんなことすぐにわかった。
一瞬で苛立ちは滝を駆け上がり怒りに姿を変えた。ふと我に返ると立ち上がった僕は空間の注目を一身に受けていた。
「あそこは芦原の机です」
そう言って椅子に座りなおしたが立った腹はそのまま教師を睨みつけたままで、僕は強く奥歯を噛み合わせた。
「…そ、そうだな、今のは先生が悪かった。しかし急な転校だったから…新しい席を取りに行かないと…」
言葉を失っていた教師がしどろもどろに喋る。
本当に悪いと思っているのか、最後に付け加えた言い訳がそうは感じさせない。こいつには百はその程度の存在だったのだろうか?
「僕の席使ってもらっていいです。気分悪いんで帰ります」
鞄をひっ掴み立ち上がる。百の席を横切るとき、机の上の花が萎れかけているのが目に映った。
明日新しい花を持ってこよう。
そう胸の中で呟いて、おい佐伯(さえき)、と僕を呼ぶ担任教師を無視しながらドアを開いて、力一杯閉めた。
~NOW LOADING~
やはり行く宛もない僕は右足を出し次に左足を浮かせ、その繰り返し。百の家に向かう気にはなれない。
気がつくとどこかにいた、なんてこともなく僕は事故現場に向かうことにした。途中で花を買ってから歩は加速して、鼓動も16ビートを刻みだし赤黒く膨れ上がった胸の内をさらにビビッドに染め上げようとしている。
そこには既にいくつかの花々が横たえられており、花弁が寒風に遊ばれていた。君が指先で転がすように、ヒラヒラと。
その脇に僕の小さな花束を添えて手を合わせる。ここに供物が居座れるのも何時までだろう?風が花びらを持ち去ってしまわないだろうか?そう思って花を少し横にずらした。
「ニャー」
「白?こんなとこまで来たのかよ?」
黒い子猫が踵の横に座って毛を繕っている。顎の下を中指で掻いて僕は近くの公園に足を運んだ。後ろから僕の影を踏む小さな足音が聞こえる。
ベンチに腰を下ろしサブバックを隣に置いた。鞄が白と僕を遮ってしまったのでそれを反対側へ移す。待っていたかのように膝の上に飛び乗った白はいつかのように瞳を閉じた。その小さな頭に掌を乗せて僕は溜息を吐く。
「どうしたもんかね」
ニャーと鳴く白は僕の言葉に反応してくれているようだった。それが嬉しかったからか、誰にも漏らすことの無かった愚痴を小さな体に投げ掛け続けた。
「なんかな、みんな百のこと忘れてっちゃうんだよ。聞いてくれよ、今日なんか酷かったんだぜ?---」
黒い瞳が意味も分からないと言ったように首を傾げて尻尾を垂らしている。頭から背中にかけて指を滑らせると気持ち良さそうに声を漏らし、なんでコイツを恨んでいたんだろうなんて申し訳なくなった。
「ごめんな、白」
その言葉に再び柔らかい音色を奏でる小さな黒いオルゴールは僕の体を少しだけ温めて、心を軽くしてくれた。
それからずっと喉の奥の靄を吐き続け、大分スッキリしたところで昼のために買ったパンを白と分け合いながら口に運んだ。
猫は炬燵で丸くなるなんて嘘だよな。なんて公園の中でチョロチョロ動く白を見ながら呟いてみたり、子供は風の子って言うしななんてにやけてみたりしながら暇を潰して時を流した。
君の代わりにはならないけれど、その隙間を埋めてくれている。結構大きな存在だぜ?白は。
「どうしたら百のことみんなに覚えててもらえんのかな…」
「ニャー」
今日一番大きな鳴き声は暗くなり始めた空に響き消えていった。
『ねぇ、知ってる?こないだ死んじゃった娘の幽霊が最近でるんだって』
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