百はトラックとの接触でその生涯を終えた。
落陽からしばらくの時が流れた寒空の下、冷たいアスファルトの上で横たわる百は発見された。
人影の少ない寂寞とした裏の通り。そこは灯りもわずかで陰りに満ちた世界。
数時間後に逮捕されたトラック運転手は睡魔と戦っていたらしく、事故の目撃者もいなかったらしい。
ただ、百の傍らでか細い音を奏でていた傷だらけの黒猫と、百のセーラー服に付着していたその野良猫の毛から彼女は車道に飛び出したソレをかばって車輪のついた鉄塊の餌食になったのだろう、と百の母親から聞かされたのは冷たくなった彼女を目の前にしてからだった。
「あの子らしいと言えば、そうよね」
不幸の使いを、百を彼岸へ引きずって行った死神を抱き上げながらおばさんはやるせなく目を細めた。その胸には子猫と共に喪失感が抱え込まれているように僕には見える。
僕はその黒猫が憎くて仕方がなかった。こいつの命に百の存在と等しい価値があるとはとても思えなかったから、あるはずがなかったから。
正義感に溢れ、曲がったことが大嫌いだった百。でも、おばさんをこれほどまでに悲しませることになるのならそんな心は必要ないんじゃなかったのか?見ろよ、おばさんのこの悲哀に満ちた表情を、胸の苦痛を堪えて震える肩を。今にも涙がこぼれそうなグレーの瞳を。
腐った今の僕を見てくれよ---
「そいつが…憎くないんですか?」
我慢できずに口から漏れたその言葉はおばさんを傷つけるだろうとわかっていたけれど、僕の心中はテレビの砂嵐のように乱れていて、乾いていて、どうしようもなく荒んでいた。
「…ハジメ君はそう思ってる?」
おばさんが小さく呟いたその言葉に視線を向け、すぐに己の愚かさを知った。優しく微笑むその仕草は、過去に黒く汚れた僕を泥の中から掬い上げてくれた百のそれを一瞬で脳の裏側に映し出すほど穏やかで、その時の彼女に似ていた。
「月並みな言葉かもしれないけど、私はこの仔の中に百が…ううん、百の心が少しだけ受け継がれてる気がするの」
震える手でそっと猫を撫でながらポツリポツリと音を発する彼女の唇は憂いに溺れていて、そこから空気が逃げ出す度に湿った振動が僕の胸に流れ込んでくる。
僕は本当に傲慢だった。自分が悲劇の主役だとでも勘違いしていたのだろう。最悲はこの頭上に降り注いでいるのだと、他人との比較で陰鬱を気取り、そうすることで百にとって特別な人間であろうとしていたのではなかろうか?
「この子猫が百の代わりになんてなれないのはわかってる。でもあの子がしたことはきっと神様も褒めてくれるし、わたしだって『えらかったね』って、胸を張って…『流石我が娘だ』って……そう言ってあげられるから…」
彼女の悲しみは僕のソレを遙かに凌駕していて、既にその壁を乗り越えるために整理が着いていることも、その涙が教えてくれた。おばさんのこぼした鉛よりも重い滴は、顔を覆う掌から腕へと伝い膝の上の黒猫へと届く。それに驚いたのか、そいつは今度は僕の爪先に寄ってきた。
「その仔もわかってるのかしら?気がついたらいつも百の部屋にいるの……誰もいない机に向かって鳴くの…きっとハジメ君も百と同じ匂いがするのね。もうそんなに懐いてる」
僕の胡座の中へたどり着こうと必死に四肢をばたつかせる子猫を見ながら笑みを浮かべたおばさんは細い指で目頭を拭い、嗚咽を漏らしながら続けた。
「いつだったかしら?あなた達がまだ中学生だった頃、百が突然ハジメ君の話をしたがらなくなったことがあったの。毎日よくもまぁ飽きもせずに口に出してたあなたの名前が急に聞こえなくなってね、喧嘩でもしたのかな?って思ってたんだけど、お茶を濁したような返事しかしてくれなくて…でね?これまたある日突然あなたの話をしだしたのよ。嬉しそうに、楽しそうに、顔を綻ばせて…笑うあの子を久しぶりに見た気がしたわ」
僕の中の最も汚れた思い出が後悔と懺悔と共に蘇り、心臓を締め付け、その力はいつもよりもずっと強く、血流と汗が体の内外で交差しているのがわかる。
「ハジメ君と話しているとね、あなたの隣に百がいる気がして…あの時の笑顔で座っている気がして…」
再び転がりだした涙の玉を一つずつ拾いながらおばさんは俯き、ごめんねと呟く。
「あの子…ハジメ君のことが大好きだったから…いつも…ずっと…今でも…」
その言葉を聞いた瞬間根本的に大切なことに気がついた。彼女の中でまだ百が生きているのだということ、微笑んでいるのだということ。そして僕の胸にもまだ君が…
「……僕も…百のことが好きでした」
何を意固地になっていたのだろう?彼女を忘れないために、悲しみで心を満たすために君を心から押し出していたのではないだろうか?僕の記憶から取りこぼさないように、自分のことしか考えず、またどこかできっと会えるなんて甘ったるい考えがあったから…だから君を胸の内から追い出すことができたんじゃないだろうか?
やっとのことで膝の登り終えた黒猫は満足そうに瞳を閉じている。僕もやっと何かを掴めた気がした。その背中をゆっくり撫でると、気持ちよさそうに猫は鳴いた。
「そうだ、ハジメ君がその仔の名前考えてくれない?その方がきっと喜ぶし…」
それが猫のことなのか君のことなのか、それはわからなかったけれど僕はその申し出を受けた。
こいつの名前は『白(しろ)』。
黒猫なのになんて笑われたが、それにはちゃんと意味がある。
『百』から『一』を引くと『白』になる。
君のもとに僕がいなかったあの頃の僕の愚かさを、君の悲しみを少しでも癒せるように、そう願ってこの名前を君に送る。
どうか、少しでも…
『一』から『百』が去っていった物憂いは僕一人で晴らせるように、君のように強くなるから…そう誓って。
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