目の前の君は只々微笑み、その瞳に僕は写っていない。
色とりどりの花々に囲まれている、気恥ずかしそうに笑う少女の写真は何時の君を写したものだろう?見慣れた笑顔が今では遠い昔の遺産のように感じる。
箱の中に横たわる君もまた安らかに目を閉じているのだろうけど、僕はそれを確認する気にはならない。君の姿を見るのが怖かった。君の死を現実とすることが、受け入れることが怖くて仕方がなかった。
芦原 百(あしはら もも)は死にました。
それはいつだったっけ?今日はお通夜だったか葬式だったか、西暦何年なのか平成何年なのか、何月か何日か何曜日か何時何分何秒か、それすらわからない。覚えていない。考えられない、考えたくない。
彼女の遺影を眺めながら次々と流れ来る参列者の中に今の僕の悲しみを理解できる者がどれくらいいるのだろう?そんなことを考えていた。百の友達の女の子が涙を流している。それを見ていると雫の一粒も落とせない僕は薄情者なのかもしれない、この娘の方が僕よりも百を大切に思っていたのかもしれないなんて考えてしまう。
悲しいはずなのに涙も出ず、ぼうっと座布団に座っているだけの僕。声を上げて泣けば百は喜んでくれるだろうか?少なくとも僕の悲しみは周囲に伝わるかもしれない。周りのみんなをより悲しませることはできるだろう。
それならば僕は泣きたい。目を腫らし、君の名前を呼びたい。でも僕の眼は乾いたままで、どうしても涙は流れなかった。
だから、泣いても彼女は悲しむだけだ、気持ちよく送り出してやるのが一番に決まっている、なんて自分に言い聞かせて僕はいろんなことから逃げている。
君との出会いは何時だったか、確か幼稚園で初めて言葉を交わした気がする。家こそそれほど近くなかったけれど僕はよく君の家に遊びに行ったし、百も僕のところをよく訪ねてきた。
いつも出迎えてくれるのは彼女の母親だけで、リビングのソファ、部屋のベッドの上に腰掛けて僕を待っていた君。待ちわびてなんかいなかったと言いたかったのかもしれないけれど、ドアが開く前から僕の目の高さに視線を向けていた百の表情が綻ぶとき僕は君がとても愛おしく、それは君が僕の到着に焦がれていたからではないかと月日を重ねてからよく思い返したものだ。
小学生になってもずっと何時でも一緒で、確かに僕は君が好きだった。
中学に入ってすぐだっただろうか?素行の良くない連中と付き合いだした僕が一々口を挟む百を煩わしく感じだしたのは。鬱陶しく思いだしたのは。冷たくあたり、突き放し始めたのは。
喋ることも、挨拶を交わすことも、当たり前だった二人での登下校さえ無くなり、後悔さえしないで毎日を過ごしていた。君への気持ちは薄らいでいき、塵のように吹けば宙に舞い、親指を押しつければじゃりじゃりと音を立てて崩れていく、後悔すらしなかったあの頃。
ある日、僕が大きな過ちを犯した時、そんな僕を嗜め、叱り、それでも優しく許してくれた、踏み外しかけた道から引き戻してくれた君はもういない。
今の僕は君のことが好きなのだろうか?
それを認めたくない自分がいる。幼い日のあの気持ちはとても純粋で、今の僕が軽薄な気持ちで恋心を抱く、そんな汚らわしい感情と一緒にしたくなかった。高校生になった僕のそんな感情を『恋』と言うのならあの頃の気持ちは『恋』じゃなくていい。名前はいらない、触れてはならない、触ったら汚れてしまう、壊れてしまう、今ではもう手に入れることのできない気持ち、消えてしまった君と同じように懐かしむことしかできない空しい思い出。思い出。
こんなところでこんな時に、死んでしまった君を想って『やっぱり好きだった』なんて逃した魚は大きいというか無くなったモノを惜しむ気持ちというか、失ってはじめてわかる大切さ、そんなものが僕の気持ちを膨張させているのかもしれない、そう考えてしまうから、君へのこの気持ちは別れによって捏造されたものだと思いたくないから答えを出さずにいるだけなのかもしれない。
もっと早く色々なことに気づくべきだった。後悔先に立たず。それは今、君と一緒に寝そべっているのだろうか?それならそのまま君の体と一緒に燃えて灰になってしまえばいいのに。
自嘲的に棺を直視する僕と百の間をどれくらいの時が流れたか、棺桶があるのだから通夜な訳ないだろうなんて少し冷静になった自分に嫌気がさした。
こんな風に時がうつろえば少しずつ悲しみを、君のことを忘れてしまうのだろうか?神は、時は僕の心を癒してくれるのだろうか?
それは喜ばしいことなのだろうか?
何時までも君との思い出を胸に心中に刻んでおきたい自分と喪失感を討ち殺したい自己が僕の中で寄り添い合い僕を困らせているんだよ。どうすればいいかな?教えてくれよ、百…
考えていたよりも時は駆け足だったようで、顔を上げると弔問客は棺に花を手向けているところだった。
「一(はじめ)君も…あの子のために…お願いできるかな?」
そう声を詰まらせる百の母親から一輪の生花を受け取り彼女のもとへ歩み寄る。
白い手が、細い指が腹の上で重なり合い鮮やかな花弁が百の生彩の無さを際立たせている。
僕は昏々と眠っているであろう君の死相が視界に入らないように、氷のように冷えきっているであろう手の甲に触れないように、菊の花をそっと…そっと百の袖の脇に添えた。
本当の別れが、悠久の離別が今はじまり、終わった気がした。
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