悲痛な鳴き声が夜空に響く。
私の中で全てが逆流を繰り返し、前も後ろも右も左も無くなって今と昔が交錯しだした。ただ、未来だけがなかった。
手放さないようにと強く握り締めることが相手にとって苦痛にしかならなくて、守るための手はいつしか黒猫を傷付けながらそれでも私は保身に身をやつし、怒りを目頭に侍る芦原さんを見つめている。
「その猫、『あたし』の猫なんだけど」
低い声で彼女は呟いた。
二人だけの秘密はもはや粉のように掻き消えて、彼女の瞳に映る私はもう醜い何かとなっているのだろう。
子猫を押さえつける仁科莢香とスタンガンを構える橘さん。そんな光景を黒猫の叫び声が表現していた。
白く細い脚を急かして近づいてくる芦原さんに私達はなにも言えず、たった今までコンクリートのようにガチガチだった両腕からはまるで卵の殻を割るように容易く力が抜けていく。
そこから子猫を掬い取って、芦原さんは私に背を向けた。
「待ちなよ」
橘さんが呼び止める。
その声色から彼女の焦りが見て取れた。流石にこんな物騒な物を握り締めているところ、目撃されるのは不安らしい。
「あんた知ってるよ、ウチの学校の奴だよね?」
今思えば橘さんは芦原さんのことをよく知っていた。それは彼女が佐伯君を恐れていたからだ。
だから苛つくことがあればすぐに行動に移す橘さんでも、絶対に彼女に関わらないようにしていたのだろう。佐伯君からどんな報復が成されるか、恐ろしかったからだ。
今思えば、そうだった。
その時の私にはそんなこと考える余裕はまるで無かったけれど。
「悪いけど、あたしはあなたのこと全然知らない」
芦原さんは冷淡にそう呟いて出口へ向かう。足を止めようとはしない。
橘さんはその背に言葉を続けた。
「今日のこと、誰にも言わないでもらえるかな?」
威嚇の意味で鳴らした電撃の音も、彼女の声も震えていた。
芦原さんは無言のまま歩を進める。
黒猫の声はつい今し方とはうってかわり穏やかに空気を撫でていた。
「……芦原さん…」
私の口から無意識に息が漏れる。
点滅する街灯よりも微かなその声に、彼女はゆっくりと振り向いた。
私は今でも忘れない。
その時の彼女の表情を、そして目を。
憂いと怒りを織り交ぜながら、初冬の風を通してその瞳は私に
『嘘吐き』
と、そう言っている様だった。
全部崩れて、私が抱いていた全ては壊れて、それは芦原さんを指していたと同時に佐伯君を延長線に捉えていたモノで、真っ暗な世界が新しく生まれていた。
終わった。
きっとこれからずっと苦しみしかない人生を歩んでいくのだと夜空が告げていた。
公園を出て角を曲がった彼女を視線で追い続けながら、私の胸ぐらを掴む橘さんの怒声を朧に聴いていた。
「仁科、あんたあいつがどんな奴か知ってんでしょ!?『芦原さん』って、名前呼んだんだからそうだよね?」
知ってるよ。
芦原さんは佐伯君の大切な人……私の憧れの人……
「あいつの男がどんなかも知ってんの!?」
知ってるよ。
佐伯君は私を助けてくれた人……私の大切な人……
「………全部、あんたのせいだからね……?」
鼓動が大きく跳ね上がった。私の薄い胸を突き破らんが如くハートが暴れていた。
「あんたがあんな猫連れてくるから……芦原が男に今日のことチクってみなよ?あんたどうなると思う?」
そうだ、私のせいだ。
私がワンを抱き上げたから、だから、私が橘さんのところに抱いていったから…
だから芦原さんに嫌われた…
「眼ぇつぶされた女もいるって話だよ。わたしに何かあったらどうしてくれんの!?」
私が芦原さんを、ワンを裏切ったんだ……
私のせいで、私はこんな辛いんだ……
私がいたから、芦原さんを傷つけたんだ……
「全部、あんたのせいだからね…!?」
気が付くと私は橘さんの手を振り解いて駆け出していた。芦原さんが去った方へ走り出していた。
「あいつにもう関わんなよ!!」
橘さんが後ろで舌打ちをしている。
それでも止まらない。私は止まらない。
芦原さんに謝りたいと、それだけが私を動かす理由だった。
冷えたアスファルトを蹴る足の裏がジンジンと痛んで、ゆっくりとその衝撃が胸まで迫ってくるのがわかる。
白く光る灯りに私の影が浮かんではまた闇に消えて、閑静な通りに響く耳障りな足音よりも心臓の踊りは激しくうねって、彼女を探す目が夜の中で涙に濡れ始めていることなど気づかなかった。
朧気な記憶でいつものあの公園へ向かう道を探しその途中、そこでやっと瞳に映った、千秋を過ぎた後のように久しく見る芦原さんの背中。
彼女はもう一度振り返る。
影を創った表情はわたしに蔑んだ想いを投げかけているのだろう。
暗くてそれが読み取れないことはひょっとしたら幸運で、もしかしたら不幸なことなのかもしれないけれど、それでももう一度会えたことが嬉しかった。
眩しく輝く黒猫の眼だけが、彼女が私を認識していることを伝えている。
芦原さんはすぐにかかとを返し、今度は走り出した。
嫌悪から逃げるように駆ける姿はあっと言う間に消えていく。私はその後を追った。
必死で私をまこうと芦原さんは何度も角を曲がり、運動が苦手な私はそれでもなんとか着いていこうと息を切らし続けている。
とうとうその姿を見失って、顔が涙でぐしゃぐしゃになっているのを袖で拭った。
どうしてだろう、それでも絶望に身やつしてはいない。
それでも立ち止まったりしない。
ふくらはぎが裂けそうになるのを堪えて、洞窟の中で反響するかのように私の声は空に呼応していった。
「芦原さん!!」
その叫びの直後、なんだか嫌な音がした。
嫌な鈍い音がしたのだ。
そして、私のすぐ隣を走り去る光の塊、エンジン音。
今までの不安を遥かに凌駕したべとつく汗は季節外れに体を冷やしていく。
その音が鳴った方へ、ゆっくりと進む歩は好奇心の為なんかではなく、そのざわめきを払拭したいが為だった。
静かな通り、人の少ないこの道の上に立っているのは私ともう一人。
私と橘さんの二人。
そして横たわる少女の影。柔らかそうな髪の毛がその顔を覆っていたけれど、それが誰なのかなんてすぐにわかった。
動かない指先に鼻を寄せる黒猫は彼岸からの死者のようにも思え、私の思考を完全に止めている。
私の目の前は真っ黒に塗り潰されて、その光景を認めようとはしなかった。
「………全部…仁科が悪いんだからね……?」
橘さんの乾いた声が全てを浸していく。
その口元に見慣れた笑みは無かった。
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