エピソード/姿なき情報屋(3)裏側
都市は余寒に震えていた。
暖冬と言われながらも、三月中旬から下旬にかけて断続的に流れてきた寒波の影響により、街の桜はいちじるしく開花が遅れていた。恒例なら散り際であるにもかかわらず、こんな雨の日でも見事に花を咲かせている。
千切れた群雲の間には春の星座。高度を落としながらもまだペルセウス座が輝いている。この辺りは背の高いビルが少ないので地平線近くの星も見えるのだ。
椿桜橋から学生街へ近付くだけで、人出と明かりが減っていくのが実感できた。時折音もなく自動車が脇道を通っては誰かが泥水を浴び、うんざりした顔をする。そんな空疎な人通りから距離を置いた雑居ビルの死角、地区内の学舎に通う学生たちが重宝している私鉄のガードレール下をごく自然に歩いていたのは、田中虎太郎――などと一方的に名乗っていた男その人だった。
この近辺の地理は土壌も細く農地には適さず、先住者も少ない。それが原因で他区画よりも比較的小型で低価格のビジネスホテルが多いのだ。
男が扉前に立ったのも、そんな民宿の一つだった。総じて最寄のビジネスホテルと同じ質素な作りではあるが、このホテルの五階より上にはダブルルームが設けられている。ここを当分の宿泊地に選んだのも、部屋は広いほうがいいと何の気なしに思ったからだ。
フロントで合い鍵を受け取ったあと、ロビーの自販機にコインを投入し、ブラックの缶コーヒーを購入する。甘味は嫌いだ。個人的な問題ではあるが、どこか生理的に受け付けないものがある。
立ち飲みで中身を空にした缶を近くのリサイクルボックスに投棄し、男はエレベーターで七階に向う。トロリーバッグを引きながら廊下を歩き、到着した部屋は707号室。取り決め通りのリズムで扉をノックすると、息をつく暇もなくすぐに内側から扉が開かれた。
ドアの隙間から、ライトブルーの眼が覗く。
「……尾行は?」
「問題ない」
酷く抑揚のない声だった。その精悍で日本的な顔立ちには、表情がない。まったくの虚無である。人形のように、仮面のように、ただ首から上に顔があるだけだった。誰が信じるだろう。この男が二十分近く前にとある少年と会話を弾ませていた、あのほがらかな人間だと、どこの誰が信じると言うのだろうか。
「そうですか。では、どうぞお入りください」
と、部屋の主がドアノブから手を離した。男もそれ以上の言葉は交わさず、流れるような動作で扉を引いて中に入る。
全体的に白さが目立つ部屋だった。とは言っても、この手のホテルならさして珍しくもない、見る者に清潔な印象を抱かせる程度の白さである。入り口から見て左手には14インチのテレビを乗せた長机、右手にはダブルサイズのベッド、備え付けのユニットバス。残業多忙のリーマンなら馴染み深い第二のマイホームだ。唯一浮いているのは、長机の上に無造作に置かれたノートパソコンくらいだろうか。
男はそのままベッドまで歩き、深く腰を下ろす。この身体には所詮気休めだが、狭い部屋で立ち話をするというのも気が乗らない。顔を上げると、この部屋の主と目が合った。探偵が被るようなキャスケットに髪はちょうど肩を通り越すくらいの長さで、けぶった灰色をしている。服装は無地のTシャツの上に羽織ったジャケットと装飾の鎖がたくさん付いたプリーツスカート。色白でややつり目の、十七歳前後の少女である。
「お初にお目に掛かります」
ノートパソコンの前に身を置く、ちぐはぐな格好の少女が口を開いた。着席したまま男と向かい合う形で一礼し、淡々とした語り口を進める。
「――この度、晴れて『欠如の傭兵(ハートレス・ソルジャー)』の雇い主となった大沢財閥より派遣されました、情報収集並びに後方支援、及び両間連絡を担当しますインストールです。長いので気軽にISと呼んでください」
「……ガキだな」
頃合を見計らって、ぽつり、と男が感想を漏らした。しかし、顔見知りでも何でもないのは互いに同様であり、少女――ISは当然のように眉根を寄せる。
「このユニット配属に私の意思は皆無ですが、強いて言うなら能力の高い優秀な人材を雇い主が選抜した、ただそれだけの結果ではないのでしょうか?」
「そうやっていきがろうとするのがガキだって言ってるんだ。……オレはガキが嫌いだ。役立たずのくせに手に負えないのだけは一人前だからな」
「だったらあなたは価値観の狭いオトナですね、ヴァンス・オブ・ザ・ハウスデッド。私は雇い主から言い渡された監視も含めてここにいるんですよ。それにご希望ならデータベースのクラッキングからあなた専用の犬奴隷まで幅広くこなしてみせます」
「こなさなくていい。言ったはずだ、ガキは嫌いだってな」
ヴァンス・オブ・ザ・ハウスデッド。
それが、この男の名前だった。
ISは不毛だと言わんばかりにため息をつき、値踏みする眼差しでヴァンを見る。
「わかりました。出してください、右足を」
「なに?」
「信用が欲しいので、足指くらいなら舐めます。ご希望なら、蠱惑的なポーズで。ああでも、さすがに両足はちょっと……その、洗ってますよね?」
「……ひょっとしてお前、ただの馬鹿なのか?」
意味がわからない。あまりに突拍子もない申し出を受けて、ヴァンは一瞬怒りを通り越して呆気に取られたくらいだった。
「心外ですね。田中虎太郎さんの数々の奇行に比べれば、今の発言は目糞鼻糞を笑うようなものですよ」
「見ていたのか?」
「お腹を抱えて」
「……趣味が悪いな」
「まあ監視は仕事ですから、私のせいじゃありません。ですが、あなたも何の考えなしにあの少年に近付いたというわけではないのでしょう?」
唐突に裏を返し、エージェントの顔になる少女。ISの推測を、ヴァンは首肯して認める。
「この街に入る二時間前に、エピソードからブツの事前連絡を受けた。お前たちの組織――大沢財閥とかいうオレの新しい雇い主の情報も含めてな。悪いが今回は任務を円滑に進めるため、こちらで先手を打たせてもらった」
硬い無表情を装いながら、ヴァンは事務的な口調で話を進めた。
大沢財閥という名称はしかし、正式なものなのかは定かではない。ジャンルを問わずあらゆる経済の分野に手を出し、関連企業と傘下企業の株式をがんじがらめに保有している、全国規模の企業集団だと言われている。
その活動内容は財政に留まらず、暗殺や密偵などの領域に達する。世界に一線を引いた裏の仕事。各国警察や諜報機関にも根を張り、目的を果たすためなら手段を選ばず、時に非合法なことまでやってのけるらしい。それだけ巨大な組織にもかかわらず、実際には完全なる正体不明。名の通った情報屋にすら足取りを一切つかませない。雲のような、実体なき存在。それが大沢財閥なのである。
「エピソード……ああ、二年前からあなたとの付き合いがあるあの情報屋ですか。そして人間嫌いの人間離れが絶対的な信頼を寄せる、相手の三歩先を読む情報屋。しかしエピソードが一体何人なのか、どのような人物なのか、その一切が謎に包まれている――とはいえ、任務内容を漏洩してくれたエピソードには感謝します。わざわざ手間隙かけて説明してやる必要も、これでなくなりましたから」
かぶりを振って言いながら手元に取り寄せた調査資料を、ISはヴァンに手渡す。文章は一文字抜かさず英語だったが、読めなくはない。憮然と資料に目を通すと、高校生女子らしき少女の顔写真と他数枚の写真、経歴が記述されていた。
「それがターゲットの少女になります」
「……なんなんだ、こいつは」
「霧崎赤音。一九九二年生れ、十五歳。この四月から私立朽葉学園の夜間定時制に入学。この学歴は彼女の身体的欠陥が影響しているようですが、まあ、この少女自体はさして問題ではないのですよ――って、あれ、ブツの情報はそっちに回ってるんじゃなかったんですか?」
「いや、名称だけだ。『yek-d』――なるほど、こいつが持ち主ってわけか」
素っ気ないヴァンの返答に、ISは素直に頷いた。
「はい。『yek-d』は霧崎赤音の父、霧崎高音がギザの遺跡調査で発見した錬金術十二の秘法が書き記されている『碑板』だと言われています。詳細は不明ですが、組織の調査によると赤音の右耳のイヤリングがそれだと。あなたには今回、その『碑板』を奪取してもらいます」
「ヘルメスの『碑板』、か……了解した。だが一つ質問がある」
「どうかしました?」
「エピソードはブツを狙っている組織が大沢財閥だけではないと言っていた。お前たちも、その相手くらい調べがついているんじゃないのか?」
ISは無言になったが、驚いてもいない。だから先回りしたヴァンの問いに困窮しているわけではない。
「やっぱり敵いませんね、エピソードには。あなたには事前勧告なしで外敵と接触し、それを迎撃してもらいたかったのですけれど」
やれやれ、とISは肩を揺らした。そのままノートパソコンに向き直り、ドライブに一枚のフロッピーディスクを挿入する。
「試すつもりだったのか? このオレを」
「そうですよ。もっとも今となっては及第点すらつけられませんが……それで、あなたはエデュメントという企業をご存知ですか?」
「知らん」
「……でしょうね。イギリスに本社を置く外資系です。まあ、私たちの雇い主と同じ部類の連中と考えてもらって構いません。これ、見てください。二日前に都市に潜伏した、エデュメントが雇った殺し屋についての調査報告です」
と、スクロールした画面をわざわざノートパソコンを持ち直してヴァンの方に向けるIS。意外に謙虚な少女だった。
だが、ヴァンは液晶画面の文章を読み進めようともせず、俄然暗い眼差しをISに向けるばかりである。
「……ここに来る途中、椿桜橋でグレゴリオの奴を見た。どうしてあいつが都市にいる? 日本に戻っていたのか?」
独りそう呟いたヴァンの口調は、これまでとは打って変わって、感情を殺した声色から、どこか熱を込めたものになっていた。
自分の思惑を台無しにされた挙げ句話の本腰まで折られたISは、ノートパソコンを二つ折りにし、さも不愉快げに返答する。
「グレゴリオ――『手繰り寄せる暴力』の異名を持つフリーの護衛屋。二年前にあなたと協力関係を結んでいた彼もまた、今回はエデュメントに雇われています」
「あいつがエデュメントに……?」
「上からの情報です。間違いないかと」
「そうか……いや、なるほどな。『yek-d』は、あいつに自分の殺し屋を護衛させてまで手に入れる価値がある、ってわけか」
言いながら、すんなりと平静な態度に戻ったヴァンにISは小首を傾げたが、少女はグレゴリオの人物像を文章でしか知らない、だから納得せざるを得ない理由があると思ったのだろう。目立った追求はしてこなかった。
嘆息――はせず、ヴァンは目を細める。
「……殺し屋はあいつだと思ったんだがな」
「あいつ、とはあの少年ですか?」
「だが違った。あいつの肉体は脆弱だ、それも肩に触れただけで身体を鍛えてないのが分かってしまうほどにな。エピソードが製作した『序章』のシナリオ通り動いてやったというのに、オレにはまるでその必要性が理解できない。どうしてエピソードはオレとあいつを――」
言いさして、黙る。当然の疑問ではあるが、エピソードとの連絡は例外なく常に一方通行なのだ。情報提供は決まってメールでの文面、橋の上で少年と別れる直前の着信もそう。アドレスは毎回変更してくるため――返信は不可能に近い。
無形の情報屋、エピソードもまた、正体不明なのである。
奇妙な停滞感。
直後――沈黙を破り、携帯電話に着信。
見覚えのないアドレスは、見覚えのある情報屋のものだった。