田中虎太郎(2)道案内
「へぇ……それじゃあ、きみも都市に?」
「はい。ちょうど二週間くらい前に引っ越してきました」
「それは奇遇ですね。ボク、運命ってやつは信じない主義なんですけれど、こうしてきみとめぐりあったのには何か特別な意味があるのかも」
「……そんなものですかね」
そんなとりとめのない会話を交わしながら、ぼく達は目的地に向けて閑静な住宅街の中を歩いていた。地面を打つ雨粒の音色だけが、遠くに響いている。目に映る家の間隔はどれもまばらで、昼間ならきっと明るいと思えるくらいの路地ではあったけど、今は夜の闇のせいで、どうにも薄暗いトンネルの中を進んでいるような気分にしかなれなかった。
二車線近くの広いアスファルトに青白い月光が浮き彫りにした人影を見つめながら、ぼんやりと思う。
「虎太郎さんはロシアからこっちに戻って来たんですよね。やっぱり仕事関係ですか?」
「まあね、ボクの場合、一身上の都合だよ。もちろん仕事のこともある。けれど、そう安易に他人の事情に首を突っ込もうとするのはいただけないな。もしボクが危ない人格破綻者だったら、今の一言できみを殴り倒していたかもだし。人間関係なんて、深入りすればするほど泥沼だ。戻れなくなって戻れなくなって、結局終いには中途半端な姿勢になる。そういうものでしょ?」
「はあ、その……すみません」
「はは、そう真に受けないで。冗談だから」
あっさり否定し、手のひらを返す虎太郎さん。
しかし今の台詞だけは水に流せなかった。理由はハッキリしている。誰にそうと言われずとも、このぼくが中途半端な姿勢になっているからだ。
家族にとってのしがらみ、みたいな。
「それで。どうしてきみはそう思ったのかな?」
どうして……?
それは、ぼくが今している質問のはずだけど。
「なんとなくですよ、なんとなく。別に、深い意味はありません。こんな微妙な時期に旅行帰りってのも、どうかと思いましたからね」
そうですか、と笑む虎太郎さんに、そうです、と返答するぼく。
なにをいまさら、とでも言いたげな口調で。
「ボクが都市に来た一番の理由は、こっちの会社に仕事場が移ったからなんだ。海外出張から引き戻されたって言えばわかるかな? さっきした同居の話も、ボクの相方になる人からここでの仕事を手っ取り早くレクチャーしてもらうためさ」
「いいですね――なんか、大人の仕事って感じ、しますよ」
あの狭っ苦しい六畳一宅で本当に同居生活ができるのかは知らないけれど。
「外国なら子供でもやってるから、大人の仕事ってほどでもないよ。それと、この街にはちょっと探しものをね」
「探しもの……ですか?」
「そう、探しもの。この世界の誰もが平等に持っていて、この世界の誰もが平等に持ってないもの。ああもっとも、きみがそれを持っているのかは、まだボクには判断しかねるけどね。でもまあ、きっと持っているんじゃないかな?」
「なんですか、それ? 教えてくださいよ」
「ボクの口から教えてやれるのはここまでだよ。ま、これでも結構話したほうなんだけどね。現地人との対話は嫌いじゃないからさ。ほら、深入り禁止。さっきも言ったでしょ? 聖人君子みたいな人間なんてどこにもいないから、みんな秘密の一つや二つは持っているんだ。だったらそれは、黙っていたほうがカッコいいじゃないか」
返事に詰まってしまい、ぼくは俯いた。これ以上の詮索は無粋というものだった。虎太郎さんの言うとおり、誰にも知られたくないことの一つや二つはあるから。
それはぼくにも、あるから。
「……そうですね」
それからは互いに終始無言だった。ただ目的地に向けて歩き続けた。虎太郎さんとの間に言葉はなかったけれど、この人は、ぼくが見知った大人とはどこか違う感じが――した。
そして。
椿桜橋の入り口に辿り付いたとき、目の前にそれが現れたんだ。
手足がスラリと長い、アスリートのような若い男だった。とにかく背が高い。ぼくより大きいのだから当然虎太郎さんより大きい見た目なのだが、しかしそんなことはどうでもいい。ボサボサの金髪に、完全に瞳を隠しているブルーのサングラス。シルクのネクタイを結んだワイシャツ上から着たぴっちりとした紺色の背広――間違いなく、ヤーさんかギャングの二択一答だった。
真正面の出口、距離もずいぶんと離れているのに、なにやら彼の周りだけ空気が酷く鈍磨しているようにも見える。その近寄ったら切り裂かれそうな雰囲気に、ぼくは戦慄した。今日だけで二回も腰が抜けそうになった。背中越しに「どうかしましたー?」とかあまりにも間の抜けた声が聞こえたが、ぼくは無視する。
ドラクエをはじめとするロープレの主人公は、仲間を後ろにぞろぞろと引き連れて歩く陣型をとっていることがよくあるけれど、あれを見て、いつも数多のモンスターとばったり出会す主人公は、よくもまあ不安にならないものだなと思う。背中を預ける、と言えば格好よく聞こえるのかもしれないが、勇気ある者と書いて勇者。なるほどその通りだと、ぼくは自己完結的に納得する。ああいう主人公に必要とされるのは、能力や伝説の剣なんかよりも、きっと背中越しの仲間を信じる心なのだろう。
……そして途端にこの状況である。
身を縮める思いで、ぼくはその人物を避けるように足を進めることにした。もちろん、露骨に避けているのが悟られないくらい慎重な足取りでだ。正直なところ、この区間を抜けるまでは虎太郎さんと先頭を交替して欲しかったのだけれど、そうすると今度はサングラスに話しかけるという非常にデンジャラスな展開(ていうかこの人、さっきから顔色一つ変えてない。野良犬にビビってたのはやっぱりぼくに近付くためだったのか)に頭を悩ませなければならないので、ぼくはそ知らぬ顔で他力本願を諦めるしかなかった。
だがしかし――それはぼくの思い違いだった。その男はあっさりとぼくたちの脇を通り抜けて行ったのである。この結果はある意味必然だった。なぜなら、あちらさんに目をつけられるようなことはなにもしていないのだから。それで絡まれたりしたらたまったもんじゃない。
でも、だけど。
眉一つ動かさなかったその男は、ほんの一瞬、交差する直前でサングラス越しにこちらへと視線を向けた――ような気がした。
がくり、と肩の力が抜ける。橋の出口に立ったところで、ぼくは後方にあの男の姿がないのを再確認すると、虎太郎さんに向き直った。
「さっきの……、知り合いですか?」
「いいえ? 違いますけど?」
あっけらかんと言う虎太郎さん。
ぼくにも、あんな人相の悪い知り合いはいないはずなのだけれど。
こっちに来てからはずっとインドアな生活を送っていたわけだし。
「ただ最近、この街は物騒だと聞きますからね。もしかしたら今のがそうなのかも」
「えっ、物騒……?」
物騒? 物騒って……、この街が?
初めて聞いたぞ、そんな話。
「まあ、きみも夜道は気をつけたほうがいいですよ? 集団下校は学生の基本ですからね」
下校中の全日制の学生だと思われていたらしい。
うう、あまり触れてほしくないところに触れられた……。
「……お気遣い、どうも」
結局、空振りのような会話に終わった。
空振りというか、空回りというか。
まったく、本当になんなんでしょうね、この人は。
「あの、虎太郎さん――」
言いかけて、ぼくは口を閉ざした。ついさっきの世間話について詳しく聞かせてもらおうとしたのだが、それより先に携帯電話の着信音が鳴ったからだ。
虎太郎さん、だった。
コートのサイドポケットから携帯電話(うわっ、こいつも黒い)を取り出すと、何やら真剣な表情で液晶画面を眺め始める。持っているのかよ携帯電話……持っているのかよ携帯電話! あらかじめ訊いておくべきだった。今時の機種ならナビゲーションシステムなんてものは標準装備だろうに。
目を細めたかと思うと、虎太郎さんはぼくを見る。どっと押し寄せてきた疲労感に脱力しかけていたので、ちょっとびっくりしてしまった。
「はあ、同居相手に怒られてしまいました。道案内、ここまでで結構ですよ。あとはきみが教えてくれた通りのルートを進んでいきますから」
「えっと……えっ? もういいんですか?」
「はい、もういいです。いろいろと迷惑をかけてすみません。よかったら今度アパートのほうにも立ち寄ってください。粗茶と茶菓子くらいならご馳走できると思うので」
「そうですね……気が向いたらそのうち立ち寄るとしますよ。それじゃあ、失礼します」
予想外の申し出だったけれど、やっと解放された気分になるぼくだった。いや、このあと学校一日目があるのか。始業式もまだだって言うのに、けっこう無駄に体力を消費してしまった……。
嘆息。
――しかけて、ぼくはあの感覚を思い出した。
あの、気持ち悪い感覚を思い出した。そして理解した。気付いてしまった。田中虎太郎が『田中虎太郎の皮を被ったナニカ』ではないかと感じてしまった――身体の内側にこびりつくような、妙な違和感の正体に。
そうだ、あの人は。
今の今まで、一度も。
「呼吸を――していなかったんだ」
ぶるり、と身体が震える。
恐怖が、全身を巡るのを感じる。
ぼくはゆっくりと視線をずらして背後へと向けた。虎太郎さんは――まだ、橋の手前にいた。
もうぼくの方を見向きもしない。
そのときだった。
車が一台、虎太郎さんの真横を横切った。
それにぼくは、また沈黙せざるをえない。
だって、その車体に虎太郎さんの姿は映っていなかったのだから。