①遭遇 ★7
相良現世



(1)遭遇



 新学期の初日は、嫌な雨だった。
 昨日の夜から始まったと聞く集中豪雨は今朝より幾分か強さを潜めたが、うるんだ景観には変わる調子のない雨音が響いている。
 遠目に見える空も、灰色というよりは、ずっと白に近い。
 いつものようにコンビニで弁当を調達したぼくは、いつもより早めに店を出る。
 早めに、とは言うけれど、時刻は午後六時を過ぎている。まったく今日から立派な高校生になると言うのに、立派な高校生が帰宅するような時間に登校しているのが自分だと思うと、無性に帰りたくなった。
「だけど、それでどうなるってわけじゃないしな……」
 だれに言うわけでもなく、自分に言い聞かせるようにそう呟いて、ぼくは止めていた歩みを進める。南大通りの角を曲がり、小路地に出たところで、ぼふんと正面に軽い衝撃を感じた。
 出会いがしら、だれかにぶつかったようだった。
「あ、す、すみません!」
 相手の顔もよく見ないままに、頭を下げる、頭を下げる、頭を下げた。
 ぼくはおそるおそる顔を上げ、ぶつかった相手の表情を窺う――電柱前のごみ箱だった。
「…………はあ」
 またやってしまった。小学校も中学校もちゃんと友達は作ったけど、特に目立つような存在じゃない。学力は中の下。志望校を落とし、二次募集でやっと満足のいく偏差値の高校(夜間だけど)に、本当に定員ギリギリで滑り込むことができたのが、人目が苦手で内気な十六歳――つまりこのぼくだ。
 そんなぼくがつい二週間ほど前に入学式を済ませたのが私立朽葉学園。地元からけっこう離れた地方都市にある。街路沿いに立ち並ぶ色とりどりのネオンサインや煌びやかなショーウィンドウ、おしゃれなカフェテラスは田舎者ならちょっとした観光気分でもあるし、なにより新生活に胸も膨らむというものだ。
 高校進学を機に、ぼくは都市に引っ越すことにした。一人暮らしである。中学の友達と離れ離れになったのも理由の一つだけど、とにかく「おまえには期待を裏切られた」と他人行儀に接する親から逃げ出す口実が欲しかった。
 もしかしたらぼくは、ここで親が自分を引き止めてくれるなんて淡い期待を抱いていたのかもしれないけれど、そんな自分勝手な都合は何の意味もない、ご都合主義は現実世界には存在しない。親は、笑ってぼくにこう言った。
 ありがとう、と。
 だから、ぼくは家を出たんだ。
 もとより他に選択肢はなかった。
 今までのことは、ぜんぶひっくるめて忘れよう。これから頑張ろう。そう思った。ぼくは決してポジティブ思考の人間なんかじゃないけれど、甘くて弱い人間なのは自分でもわかっているから。
 空っ風の吹きすさぶ平日の通学路で、ぼくは独り寒さに身を縮こませる。ただでさえ夜間に街中を出歩くのは気が引けるというのに、周囲には通行人の一人もいない。まだオフィス街から少し距離を置いただけだというのに、住宅街に入ってからは人通りが完全に途絶えていた。草木も眠る丑三つ時、なんて表現がしっくりくる。
「丑三つ時じゃないけどね……」
 呟いて、ぼくはふと足を止める。またうっかりぶつかりそうになった――のではなく、視界に妙な人影が入ったからである。
 妙な人影。
 こちらに背中を預けているのでどんな顔をしているのかはわからないが、線の細い男だった。旅行に行くのか旅行帰りなのか、黒いコートをしっかりと着込んで、キャスターがついた革張りのトランクを地面に引きずる形で手に持っている。こういうのを黒ずくめの男っていうのか、なんていい加減に納得していると、唐突に男が視線を転じ――ぼくは、その顔に血を見たのかと思った。
 ぱちぱちと雨を弾く傘布の隙間からぼくを覗き見る、赤い、ふたつの眼球。こんなときに限って間が悪く、辺りには街灯が見当たらない。そのため暗闇との相乗効果も相俟って、いっそ鮮烈なまでの紅色だった。と同時に、ぼくにすればそれは畏怖の対象でしかない。とにかく怖かった。すっかり威圧され、ぼくは身動きが取れなくなってしまった。あの目にぼくは映っているのだろうか。いや、映っているに違いない。だって。あの足。ぼくのほうに、もう踏み出してる――!
「ひっ……」
 ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ、と。
 一歩一歩、こちらに近付いてくる足音。身体が動かない。動けない。ぴちゃ。男がぼくの正面で立ち止まる。黒い皮手袋が肩をつかんで、ぐ、と握り締めた。そして、
「たっ、たたたたたっ、たたったっ、助けてください!」
 絶句した。
 黒ずくめの男はくるりと背後に回り込み、ぼくを壁か何かにするようにしてすぐに身を屈める。握られた肩が痛い、かなり強引につかまれているようだった。
「く、くる! ヤツがくる! ひゃあああああ! らめええぇえこないでえぇぇえぇ!」
 思わず、といった感じでぼくは立ち尽くす。こんな間抜けな声で惜しげもなく叫べる人間がこの世にはいるというのか?
 否だ、というか、嫌だ、そんな人間がいるなんてぼくは認めたくない……もうエンカウントしちゃったけど! そう、それこそぼくは叫びとして主張したい。だって、らめえ、だぞ、らめえ。らめえ、って叫ぶ人間が今ぼくの後ろにいるんだぞ!?
 ていうか、なんだ? なにがくるんだ? もしかして借金取りとか? この人は夜逃げの最中だったのか!?
 目先の深い闇の中から、きゃんきゃんと野犬が一匹飛び出してきた。
 よもやこれで終るはずもあるまいと身構えたが、これで終りだった。
「……な」
 何ですか? 何なのですか? この状況。やばい、展開が意味不明過ぎてついていけない。考える暇もなく、あっという間。雰囲気に流されるだけで精一杯だった。そしてさっきも聞いた間抜けさ全開の呻き声がまた聞こえてくる。えっと、つまりあれですか? あの野良犬にビビってこっちに近づいてきたのか、この男の人。いい年した黒髪の青年がぼくみたいな高校生を頼りにするのは一向に構わない、だが、だがしかし、こればかりは許容できない……!
「……あ、あの、どうかしたんですか?」
 腰の低い口調で、ぼくの方から青年に質問してやる。らめえとか叫ぶ人間でも、これでいくらか気持ちに余裕ができるはずだ。
「いっ、いいいいいっ、犬に追われているんです! 見てわかりませんか!? わかりますよね!? 追い払ってくれると助かります!」
 駄目だった。
 多少の予想はあったが、この男の人、かなり気が動転している。結構びっくりした。相槌を打つところで思わず乗り突込みを入れそうになった。
「……追われてるって、かわいいじゃないですか。ぜんぜん普通のワンちゃんですよ。ほら普通普通、普通万歳」
「助けてください!」
 ぼくの話は無視かよ。
 もういいや、単刀直入に訊いてみよう。
「……犬、苦手なんですか?」
「はっ、はい。動物、とくにああいう犬には嫌な思い出しかなくて……。その、昔手を喰いちぎられたんです」
「く、喰いちぎられたんですか……っ!?」
 なんて流れのままに驚いてみたけど。
 ……どう見ても噛みつかれたの間違いだろ。
「あー……ありがちですよねえ。ぼくも昔、近所の犬に餌をやろうとしてザックリやられましたよ。あいつらの脳味噌って百五十グラムくらいですからね。きっと差し出したぼくらの手もステーキかなにかだと勘違いしているんでしょうね」
 正直にいえば全肯定はできないところだけれども、そう言っても問題はないのだしこの青年にはそうだと言っておこう。
「……えっと、じゃあ、やれるだけやってみます」
 そういうわけで、うわー、とか叫んで野犬を追っ払うぼく。やった後で後悔した。これ、最悪だ……恥辱に満ちている。マジで辺りに人がいなくてよかった。
 顔を伏せて、ぼくに密着させていた身体を離す青年。その肩は、くつくつと震えている。よっぽど怖かったんだな……って、ん? いや、この人。もしかして、笑ってる……のか?
「いや、いやいやいや。ありがとうございます。ボク、実を言うと都市に来るのはこれが初めてでして。見物がてら繁華街を見て回ってたらすっかり日も暮れちゃって、椿桜橋を通り過ぎた辺りから路頭に迷っちゃったんですよ」
「……それ、使い方間違えてますよ」
「ははは、土地勘のない人間が見知らぬ街で目的地を目指すのって、大変ですよねー」
 犬は関係ないみたいだった。
 関係ないのかよ。
「しかしそれでも、うわー、うわー、うわーって……子供かよ、くくっ」
 笑いやがった! いや、嗤いやがった! この人、歩道に通行人がいたら絶対に笑い物になっていたぼくの勇気ある行動を一笑にふしやがった! どうせ助けてくださいとか近寄ってきたのもはなからぼくを馬鹿にするため……、って、うん?
「あの、……もしかして都市に引っ越してきたんですか?」
「はい。……と言っても、ボクの場合は同居です。相手を待たせているから、なるべく時間を掛けずに辿り着きたいんですけどね……あっ、すみません。ボク、田中虎太郎って言います」
「田中太郎じゃないんですね……」
「よく言われます」
 虎太郎さんは苦笑した。傘布の下にあったのは柔和な顔立ちだった。初対面の人間ならいい人属性の第一印象を受ける、そんな屈託のない笑顔に――ぼくは、少し引き気味だった。なんか、ゾッとした。この人と会話を続けているとどこか客観的に自分を観察されているような、そんな気分になる。
 真正面から向き合っても、田中虎太郎じゃない何者かに見られている感じ。
「ところで、えっと。きみ、名前……何だっけ? ザーボンさん?」
「…………!」
 ぼくの名前をそんなふうに間違えたのはあんたが初めてだ……!
「まだ、田中さんの方しか名乗ってなかったと思いますけど……」
「ああ、田中なんてありふれた名字じゃなくて、気軽に虎太郎でいいですよ。多い少ないで言えば、こっちの方がまず少ないでしょうし。それとさっきのもほんの軽口ですから、どうか気になさらず」
 虎太郎さんは悪い冗談でも聞かされたような仕草で頭を掻く。そうしたいのはぼくの方なのですけれど。
「いやね、さっきも言ったとおり道に迷ってしまって……ここら辺のはずなんだけど、きみ、わからないかな?」
 仕切り直すように、虎太郎さん。
 住所が書かれている紙切れをぼくに差し出してきた。
「……あ」
 幸いなことに、受け取った紙切れの住所をぼくは知っていた。そこは、古いアパートだった。都市に引っ越してくる前に目星をつけていた物件の一つなのだ。六畳一宅、入り口のすぐ横にガスコンロだけ置いてあって、家電や風呂なんかも含めて人が住む家としての機能が抹消されているぶん、家賃が物凄く安かったのが、記憶にまだ新しい。
「……てか、この住所、現在地と真逆ですよ」
 思わず口が出てしまっていた。しまった、と慌てて口を噤むぼく、意味ありげに笑う虎太郎さん。ここら辺のはずとか言っていたけれど、どうもこの人に方向感覚というものは皆無のようだ。今のが計画的発言だったらそれはそれで驚愕に値するが。
「その口調だと、どうにもきみにはボクの行きたい場所がわかってしまうみたいだ。なにせこの街を歩くのは初めての経験でね――正直困っている」
 つまり、このぼくに道案内役を引き受けろと。
 そう言うわけですか。
「……わかりました。いいですよ、引き受けます。ぼくは基本的に気まぐれな人間ですからね」
「気まぐれな人間、ね」
 苦笑して、虎太郎さんは「ありがとう」とぼくに礼を言う。まったく、せめてコンパスで方向を確認しながら地図で目的地を定めて行くぐらいのことは、ぼくと出会う前にやっていて欲しかったものだ。
 けど、まあ。
 思えばそれが、都市に引っ越してきてからぼくがした、初めての人助けだった。


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匿名読者
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