ⅩⅤ.開戦『起』 ★7
  
 時間は、ISが目を覚ます三十分程前まで遡る。
「糞が……糞が糞が糞が!」
 張亦菲――アウトライナーは吼える。仕事という形式上の殺人で欲求を満たしていた転死屋とって、かの組織の一員であるハートレス・ソルジャーとの遭遇は、果たして偶然の産物以上の価値があった。確かに予期せぬ出来事ではあったが、組織が全盛期の頃から彼にはある種の敬意を抱いていたので、偶然などと安っぽい言葉で片付けるのは、殺人鬼としての彼女のプライドが許さなかったのだ。
 アウトライナーは、ただ純粋に『食事』という概念の中に殺人を取り入れて他人の生き血を啜る。自分への妥協ではなく――より深い快楽を求めて。あの男が罪のない億千万人の人々を殺してきたのは、舌先が覚えた快楽の味に酔いしれてのことなのだろう。そう考えると、尊敬や羨望は自然と同族に対しての仲間意識へと上書きされた。まるで自分の鏡映しであるような怪物が、自分が自分を退屈させるはずがない。させてくれるはずがない。予想通り、彼女は久しく感じなかった戦慄に心を奪われた。そしていよいよ本気を見せてやるというところになって――相手が逃げ出したのである。
 そのときアウトライナーが目の前の光景を受け入れられなかったのも、また事実だった。あの歴戦のハートレス・ソルジャーが、まさか自分ごときに背中を見せるとは誰が思うだろう。後悔に顔を歪め、この建設途中の大型施設にグレゴリオが目を付けるまでは、足りない脳細胞でその理由を永遠と考えていた。彼女は考えた、あの男には心臓がない。なら、赤心の傭兵と謳われた己のプライドまで失っていたとしても――
 本っ当に、人生とはままならないものだ。だから言わせてもらう――クソッタレが。アウトライナーは充てもなく怒りを吐き散らした。しかしそれも、一体誰に対しての怒りなのかすらわからない。彼女が患う極度のADHDも情動に拍車を掛け、三十分近く溜め込んだ感情がついに暴発しそうになったが――その直前である。人質目的でゴーストが攫ってきた女――今は気絶しているが、先刻の会話からハートレス・ソルジャーを雇った組織の人間であることはアウトライナーにも察しがついている。
 その女の上着に入っていた携帯電話が、震えた。
「どうやら、この人質は効果があったみたいだね。こういうやり方はスマートじゃないんだが……綺麗な首だ。コレクションに加えられないのが、本当に惜しい。ああ、待って。交渉役なら僕が買って出るよ。こういう悪人っぽいこと、死ぬ前に一度やってみたかったんだ」
 純白のスーツの上に銀’鎖’が巻きついた方の腕を振って、ゴーストはグレゴリオの動きを制する。一見、何の変哲もない鎖であるがアウトライナーの所持品ではない。あれは彼が持ち得る本来の業物の形らしく、つまりは大鎌だったものだ。
 こればかりはアウトライナーも感心した。納得する以前に、あんな長大な武器を我が物顔で持ち歩く馬鹿はいない。そして、ハートレス・ソルジャーが己の影を操るならゴーストは銀物質を操るのだろう。記憶が曖昧だが、そ’う’い’う’者達が集まった組織の話は確かに聞き覚えがある。もっとも、それが暗殺教団なのかは知らないが。
「あいつで大丈夫なのか?」
「知らねーよ。まあ本人がやりたいっつってんだから、好きにさせな。てめえよりゴーストの舌の方がよく回る。おれはこの停滞状態からさっさと脱却してえんだ」
 口ではああ言ったが、ゴーストは最初からグレゴリオに交渉役を任せる気などないのだろう。今は護衛屋を名乗っているが、この男も列記とした『組織』の一員なのである。警戒しないほうがおかしい。アウトライナーの場合は張家が引き受けた仕事が再起不能となっている姉の代役として末妹である自分に回ってきた形だが、寄せ集めの同盟関係は砂のように脆い。信頼はなく完全に利害だけで成り立つ関係。要するに手を組んでいると言っても、いつどちらとも寝首を掻かれるかわからないのだ。
 特にゴーストは顔合わせの前からグレゴリオ危惧しており、ここ数日は目に見えない所で常に張り付いていた。途中、尾行に気が付いて車を放り投げてきたなどと言っていたが、いくらなんでも相手がゴースだとまでは考えが至ってないらしく、次の日はイラつきながらニコチンの補充を繰り返していたそうだ。
 ――グレゴリオは二重スパイではないのか。
 胸中に芽生えた小さな疑問も、今や明確な疑念へと変貌を遂げている。あの電柱を投擲したのも、ひょっとしたらハートレス・ソルジャーを逃走させる手伝いだったのでは――と。
 強い疑念は早めに払拭しておかなければ、とは思う。だがグレゴリオの真意を探るためにも、ここは泳がせておくべきだろう。また、この同盟内で仲間割れを起さなければならない状況に陥った場合、能力の相性上アウトライナーとってグレゴリオは最大の障害となりうる。
「――ああ、そう。わかった。じゃあ、今から行くよ。その首を洗って待っていろと、赤音ちゃんに伝えておいてくれ」
 ピ、と通話終了のボタンを押す壮年の男。交渉の間も落ち着いた物腰を崩さず、人質を取っている脅迫者の持って回った言い方は感じられない。僅かに沈黙を挟んだ後、やはりゴーストは上機嫌な調子で本題を切り出した。
「ハートレス・ソルジャーからだ。話を聞いてみると、どうやらあちらの任務に赤音ちゃんは直接関係していなかったみたいでね。必要な物は手に入れた。『箱』は引き渡すから、そちらの彼女と交換しろと言ってきている」
「あぁ?」
 不愉快そうにゴーストを睨みつけるアウトライナー。
 いや、不愉快よりは不可解といった感じだろうか。
「けらけら、おいおいおい。箱を取り除いたら赤ずきんちゃんに何の存在意義があるってんだよ、ゴースト先生。それにハートレス・ソルジャーとおれらの目当ての品が違うってのも初耳だぜ、おれはよ」
「アウトライナー……君が言ったことだろう? 僕達は所詮雇われ眷族。捨て駒になるやもしれない連中に、雇い主がわざわざ仕事の核心まで優しく説明してくれるはずがない。雇い主のことなんかいちいち考えていたら、この仕事はやっていけないと、そう愚痴ってたのも確か君だった気がするけどね」
 ゴーストの答は至ってシンプルだが、あんな事を思い出した後では何か裏があると思えてしまう。だからだろう、アウトライナーは無意識でグレゴリオの方に視線を向けていた。尚も煙草を吸い続けている背広の男は、口数が本当に少ない。こちらの会話に口を挟もうとしないのだから相手の考えを読むこともできないのだ。




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匿名読者
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