情報不足。
情報足らず。
霧崎さんの事情はぼくにわかる話じゃないと割り切っていたけれど、本当にその通りだった。
彼女は顔を上げ、ぼくの目を真っ直ぐに見つめて。
精一杯作った笑みの表情で。
ぼくに告白した。
いざ話を聞いてみれば――中学二年生の夏頃まで霧崎さんは、とある女子中学校に通う、どこにでもいるような普通の女の子だったらしい。
文武両道を良しとする、健全的な毎日を繰り返していたそうだ。
そしてある日、本当の本当に何の前触れもなく、小学生の頃に他界した母親の死因と同じ、大病を患った。何万人に一人という確率の、遺伝的背景が関与した、徐々に発現する後天性の心臓病ということだった。
激しい運動はもちろん、階段を上り下りするだけで激しく胸が痛む。調子がいいときは授業に出席していた、なんて言っていたが――しかし、実際そんな日はなかったらしい。日々衰弱し四年の歳月を掛けて中学を卒業したが――ぼくが代官山中学に入学したときには、とうとうまともに歩くことすらできなくなったという。
霧崎赤音、十六歳でもない二歳年上の先輩。こんな身体的欠陥を持つ人間など、漫画の主人公なんかによくいるか弱い少女で十分だと思っていたが、保健室にこもりきりだったというのは、案外冗談でもないようだった。
霧崎さんが二年以上と言っていたので、てっきり、ぼくは三年間という歳時を中学一年からカウントしたアバウトなものとして考えていたのだけれど、それは中学二年から加算して三年という意味だったのだ。
今になって考えてみれば、霧崎さんの言葉に飛び飛び矛盾があったのにも、納得がいく。
十五歳まで生きれないと言われていた霧崎さんは、留年決定時ですでに十六才。医師に余命宣告された年数より一年も長く生きているのだ。しかし、それが霧崎さんを余計に苦しめる。
――あたしの命はあとどれくらいなのだろう。
誰の目にも臨終に向う、大病を患った末期患者として映る自分。こんな病気でいつ死ぬかわからない人間の面倒を、親族友人はいつまでみるのだろうか。通学と休学を繰り返し、学校の中でも自分にとっての苦難は山ほどある。ときどき酷い発作も起こり、やはり病院に戻る選択をするのが一番安心なのかもしれない。
しかし。
病院に長く入院していられるほど裕福な家庭でもなかったらしい。
霧崎家は異例の母子家庭で、何でも、霧崎さんの父親はその道では有名な考古学者らしく、積み重なる仕事のせいで家族とは大分疎遠の関係にあったそうだ。それこそ、母親が遺品として自分に託した写真を見ても、はっきりと顔が思い浮かばないくらいに。
仕事で稼いだ仕送りは母と娘が生活を送るために必要な最低限の生活費だけ。
霧崎さんの母親が倒れた原因は――病弱な身体なのにもかかわらず、無理をして、娘を養うために働いていたことにもあったのだ。平たく言えば父親のせいで死んでしまったのも同然だった。
なのに、霧崎さんの父親は、母親の葬儀にも姿を見せなかった。
言伝は、確かに行き渡っていたはずなのに。
なのにどうして。
どうして、お父さんは。
願った代償として――望んだぶんだけ、霧崎赤音は父親を信じられなくなった。
母親が死ぬ日がくるということは、必然に近い、限りなく必然に近い、偶然だということを、当時小学三年生の霧崎さんはよくわかっていた。だからせめて、母親の最後を、父親にも自分と一緒に見取ってほしいと思ったのだろう。
そう、結局、彼女は願わずにはいられなかったのだ。
母方の祖父祖母に引き取られ、余命一年という絶望的な病状を医者に告げられてから漠然と死を恐れるようになった霧崎さんは十五歳の誕生日には自分が死ぬのだと決心していたから、十五歳になる前の日には娘のために父親が駆けつけてくれるのでないか――と。
なんて都合のいい女なのだろう。
そしてなんて酷い話なのだろう。
そんな自分勝手な都合は何の意味もない。
ご都合主義は――この現実世界には存在しないというのに。
霧崎さんは打ちのめされた。
自殺まで考えたほどに。
自重出来たのは奇跡に近い。
祖父母の助けもあってその場はなんとか立ち直ったが、所詮、傷口の上に薄く張るかさぶたに過ぎない。他人は、自分の外観や態度だけを見て、傷口は乾き癒え始めていると判断したかもしれないが、実際はジュクジュクと異臭をたてて膿み、霧崎さんの心を蝕んでいた。
様々な事情を考慮し、論理的に積み上げて、やがて霧崎さんは『自己』について考えることを止めた。
現実から逃げ出して――
閉鎖的になった。
祖父母に入院費の負担を掛けるわけにもいかず、表面上は学校に行くという名目で――霧崎さんは、保健室に閉じこもっていた。思えば、旧知の友達はいても、病気のせいで対人関係希薄になった霧崎さんに新しい友達なんて作れるはずがない――保健室という空間が、『医療の場』から『拒絶の場』へと変わっていたのだ。
悪循環は病状だけに留まらず――いつしか人間関係にまで及んでいたのである。
そしてそんなことを繰り返しているうちに――
決定的な事件が起きた。
霧崎さんの心臓がついに活動の限界を迎えたのだ。
息絶え絶えになって倒れたのは自宅――祖父母の家で、病院に運び込まれた彼女はそのまま意識不明の重体となった。
植物状態という奴だ。
霧崎さんの病気は一向に回復する素振を見せず、それどころかより一層悪化するばかりで、今にも燃え尽き、消えようとしている命を、医者も手を拱いて見ているしかない惨状だった。
そうやって時間だけが悪戯に過ぎていき、一年が過ぎかけた、十二月二十四日。
突然に、霧崎赤音は目を覚ました。その日は部屋の窓から見える雪景色がとても綺麗で、キリスト誕生の記念すべき日に自分が再起を果たしたことには、何か数奇な運命を感じてしまったくらいだが――
――しかし、患者服姿の霧崎さんが目覚めた場所は病院でも自宅でもない――都内にある見知らぬ廃屋の中で、保護されてから聞いた話だが、自分は二日前に、忽然と病室から姿を消していたそうなのだ。
それだけではない。
霧崎さんは車椅子も使わないで――欠陥臓器の痛みを感じることもなく、『徒歩』で近場の交番まで出頭したのだ。まるで人類が二足歩行に目覚めたように、彼女は再び歩けるようになっていたのだった。
担当医の精密検査によると――自分の臓器は極めて良好な状態で鼓動を続けており、ドナーから臓器移植でもされたかのように、心臓付近には切開の痕跡があったという。でも、そんな結果なんてどうでもいい。身体は動く。動くためにある。胸の内側から溢れ出たエネルギーで、霧崎赤音の瞳の色が変わった。何もせず、想いだけを抱えたまま周囲との不和を保つことしかできなかったあの日を繰り返すのは、もう嫌だった。霧崎さんが何度も胸を使ったアプローチを仕掛けてきたのは――まさかとは思うけれど。順調に回復し退院、ぼくと同時期に復学し、一年間で中学を卒業して、口葉学園の定時制に入学し今に至るということだった。
あれよあれよとここまできちゃった――とは言っていたけれど。
実際、リストカットにでも走ってしまいそうな環境に身を置いていたのは、彼女の方で間違いないのだろうと、思ってしまう。
幸多く無知な子供を泣かせたい理由――納得した。
他人の幸せが許せない理由――納得した。
それは全て、霧崎さんが望み欲したもので――
だけど、そんなの、ただの八つ当たりじゃないか。
霧崎さんの心臓は本来の機能を取り戻した。
かのように見えたが、病院を出て間もなく、身体の内側に異変が現れた。彼女がそれに気付いたのは、ちょっとしたことから身体の一部を傷付け――流れ出た血液が、十秒も経たない内に凝固してしまったからだという。
まるで死体にでもなった気分だったそうだ。
死して尚生きる――リビングデッド。
とは言っても、奇妙なことに、霧崎さんには他人が聞き取れない心臓の鼓動も――その脈拍だって、ちゃんと感じることが出来るのだという。
そして彼女が彼女の問題を、ぼくに打ち明けた理由は――
「身体が動くようになって、まずあたしがやろうとしたこと、あなたにわかるかしら?」
沈んだ口調で霧崎さんは言う。
返事が思いつかない。
だけどそれ以上に、喉が震えて二の句が告げなかった。
「この足で世界中を見て回りたかった――なんて考えちゃったりしてね。今まで羽を伸ばせなかったぶん、そういう欲求が反動でくるっていう、現世くんと同じ状態になったのよ。ついでにどこかに隠れている父親も捜し出して――そしてこの手で殺してやろうと、お母さんがあたしの前からいなくなったあの日からいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつも思い続けてきたわ」
怖かった。
顔面に笑みを貼り付けたまま、そんな物騒なことを平気で口にする霧崎さんが、ぼくは怖かった。あの十字路で目にした逆上にも近い剣幕との落差に怯みかけたが、動揺を、表情の中に隠すことになんとか成功する。探しても見つかる言葉はないけど、このまま沈黙を保つ方がもっと辛いと、ぼくは判断した。
「でも、そんなこと――」
「いけないと思う? 思うわよね。思っちゃうわよね。いいのよ、現世くん。そう思うのが人間の正常な感性だし、当たり前のことだから。ええ、そうよ。殺しはいけない。いけないわ。わかってる。何も間違ってないわ。ただ、これだけは言わせて頂戴。――あたしの肉体を切り開いて、この『中身』を弄繰り回したのは、あの男なのよ」
「それは……」
どうなのだろう。霧崎さんの父親は名の通った考古学者ということだったが――そんな人間に、果たして皮膚の切開など、軽々と出来るものだろうか。まあ、その人物に医学の心得がどの程度あったかにもよるが――
執刀とは失到とも書けると聞いたことがある。
曰く、素人ではどだい話にならない。
「距離や立場によって人間関係が変化していくのはわかるけど、酷いわよね。自分が愛した女と、その娘の窮地には顔も見せなかったくせに、こっちが岸辺に打ち上げられた魚類みたいにのた打ち回っている姿を見て、今更のようにしゃしゃり出て来るなんて――迷惑千万もいい有様よ。あたしの原動器官はとっくに朽ち果てたはずなのに、遮二無二に生かされてるとしか思えない、こんな奇怪で愉快な身体にして――」
と――続いていた会話が、一旦途切れる。
静かな諦念に浸された言葉だった。
嫌な予兆を孕んだ沈黙が流れる。
「これは父親の知り合いから聞いて知った話なのだけれど――あの男、仕事で稼いだお金を、どこかに流していたらしいのよね」
霧崎さんは言った。
「その理由が、今日になって、ようやくわかったわ」
「…………」
「さて、ここで、現世くんに簡単な問題です。あたしの父親が大金を貢いだ『相手』から密輸入したものとは何でしょう? 一年と四ヶ月前のクリスマス・イヴにあたしは身体の『どの臓器』の近くを切開されたのでしょう? そのたった一ヶ月前に田中虎太郎さんの身体から無くなったのは――『どの臓器』なのでしょう?」
「……ちょっと待ってくれ――霧崎さん、その発想は――」
しかし、喉に異物が詰まったような音が漏れただけで、ぼくのかすれた声は、それ以上の発音を作ることはなかった。背筋から一気に全身へと悪寒が走る。大きく首を上下させて、口内に溜まっていた唾液を飲み込んでも、ぼくはその『最悪の仮定』にうろたえるしかない。
担’当’医’の’精’密’検’査’に’よ’る’と’、自’分’の’臓’器’は’極’め’て’良’好’な’状’態’で’鼓’動’を’続’け’て’お’り’、ド’ナ’ー’か’ら’臓’器’移’植’で’も’さ’れ’た’か’の’よ’う’に’、心’臓’付’近’に’は’切’開’の’痕’跡’が’あ’っ’た’と’の’こ’と’だ’っ’た’。
ちょっと……ちょっと待て。待ってくれ。あの人は、自分がヴァンス・オブ・ザ・ハウスデッドという異名を持つ怪物で、弱点である心臓を奪われ、それが今は大沢財閥が保有しているという話をしてくれたけど――それは、つまり、そういうことなのか? この結論にぼくらが辿り着くまでの、予定調和だったと……?
いやしかし、アウトライナーはこうも言っていた――ど’う’回’り’道’し’て’も’霧’崎’さ’ん’を’殺’す’こ’と’は’確’定’だ’と’。
思い当る答は一つしかない――それは『霧崎赤音』が中身の見えないブラックボックスで、自分のたちの欲するものが、皮肉にも『切り裂き開かね』を意味する箱の中に、収納されているからなのだった。
そしてその持ち主は、自分の心臓を『他の身体』とすげ替えたら、宿主が一体どうなってしまうかを、正しく知っているのだろうか。
息を整え、情報を整理する。
得られた結論は一つ。
それを知らなかったからこそ、あの男は迂闊に実力行使へと踏み切るわけにはいかなかったのではないのだろうか。喉から手を出してでも奪い返したいものを目の前にして、自重できたのは流石と言うべきところなのだろうが――
ぼくは、一つだけ霧崎さんに隠していることがあった。
実は、彼女が無我夢中で衣服を探している間――ぼくは、ISのノートパソコンの中にあるブロックファイルを突破していた。ぼくが使ったのは非合法的な手段だったし、端的に言うなら違法行為になるのだが――そのファイルには、エデュメントとの裏取引の詳細が記されていた。誘拐依頼から奪還まで――果てには裏金を独自のルートに流したりと、目を疑うような内容だった。
ヴァンやアウトライナーは――きっと知らないのだろう。大沢財閥とエデュメントは、自分らが雇った者達には伝えず最初からグルなのだ。それが必然であるように、目当ての品も異なり――エデュメントは、ヴァンの心臓を欲して動いている。
まるで、大沢財閥が失った心臓を、今一度手中に収めさせるかのように――
でも、ぼくは思わざるを得ない。
この展開は妙に都合が良すぎると。
「それを知っていたから。あの人殺したちも、あたしのことを付け狙ったのでしょうね。実を言うと、あいつらの口から父親の話が出たときには、もうなんとなく察しはついていたのよ――それでも、あたしは」
言葉が上手く繋がらず、霧崎さんは押し黙った。
彼女は何と言おうとしたのだろう。
そして何を告げようとしたのだろう。
そんな壊れてしまいそうな表情で――ぼくに、何を。
「現世くん」
霧崎さんは立ち上がり、ぼくを見下ろした。
「現世くん」
霧崎さんは立ち上がり、ぼくを見下ろした。
「あたしはあたしを取り巻く周囲の人間が羨ましい。それが五体満足の赤ん坊だとしても、嫉妬に頭を悩ませてしまうくらい羨ましい」
他人に罵られ蔑まれても――今のところ、ぼくは幸せだった。
心に傷は抱えたまま、
それは癒えることもなく。
だけど、幸せだった。
「何を伝えたいのかと言うとね、現世くん。あたしは自分が目を覚ましてから、ずっと今日みたいな日が来るのを待っていたのよ」
「……それって、つまり」
「死にたかったのよ、あたしは」
一編の曇りもない言葉だった。
「生きるのが嫌っていうか、もう疲れたのよ。疲労困憊ってやつもあるけど、そもそもとっくに埋葬されているはずの人間がズルをしてまで生きようとするなんて卑怯だし不公平じゃない。だから死にたかったんだけどねえ……」
「だけど?」
「現世くんに会ったから、死ぬのも面倒臭くなっちゃった」
無邪気に笑う彼女が、酷く醜く見えた。
身体が震えている。
目の焦点が合わない。どうしたんだ、ぼく。
「……一緒に話をしたのなんて――まだ一日の半分より少ないじゃないか」
「大切なのは費やした時間よりも、その内訳よ。それは、中学時代の霧崎赤音がいい例えでしょう?」
「それは……」
「だからね、現世くん。高校時代の霧崎赤音にとってこの一日は、とても充実感に満ち溢れていました。あたしの失った中学三年間が全て清算された、とはまでは言わないけど――それでもね、これだけは言えるわ」
霧崎さんの唇が僅かに隙間をつくった。
「あたしが現世くんの友達なら、現世くんもあたしの大切な友達なのよ」
ぼくの額を指で小突いて。
年上からの年上らしい、文字通り上からの物言いだった。
それは、ぼくの同情を誘うための免罪符でもなく。
霧崎赤音の、明け透けで純粋な告白だった。
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