Ⅹ.戯言 ★7
 
 ぼくと霧崎さんが部屋を出る前に――ヴァンは、一通りの事情と『yek-d』と言う名のイヤリングついて話してくれた。
 偶然にも霧崎さんの父親がギザの遺跡調査で発見した『yek-d』は、別名『エメラルド・タブレット』と呼ばれる、三万六千五百二十五冊の著作を残した錬金術の開祖、ヘルメス・トリスメギストゥスによってその十二の秘法が書き記された、ラテン語の写本が残るのみである『碑板』の現物(オリジナル)だという。
 そしてぼくが手に触り見せてもらった『錬金術の聖書』の表面には、暗号を散りばめたような、意味不明の十数行が、うっすらと刻み込まれていた。
 中学時代、件の二年始の頃のぼくは、ゴシックやオカルトの世界に強い興味を持っていたので、ネットを徘徊していると、そういう知識は必然的に学ぶことが出来た。記憶に従えば、確か錬金術の最終目標は黄金変成や不老不死で、それを叶えるのは賢者の石という物体だ。『碑板』の最後には『太陽の働きについて』とある。何でも、この『太陽』が石を意味しているとかで――
 『碑板』の正体は、賢者の石のレシピなのだ。
 ぼくが掲示板の画像で見たレプリカの賢者の石は、歪みはあるが球体に程近い、直径三センチほどの水晶球だった――と言っても、あくまで空想上の産物なので、教科書通りに解釈するなら決まった形状はなく、固体でもあり液体でもあるらしいのだが。
 石は、その製造過程で三段階に分けて変色する。
 初めは死を象徴する黒に、中間は復活を暗示する白に、そして完成形霊薬石は完全を意味する赤に変わるのだが――完成後も石が底辺にかけて赤黒いのは、その製造法が極めて惨憺としているからだそうだ。
 賢者の石に合わせて、ぼくが思い出したエピソードがもう一つある。
 若きウェルテルの悩み、西東詩集の著者であるドイツの文人、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの代表作、戯曲『ファウスト』の第二部第二幕の中で取り上げられていた――ホムンクルス(人造人間)。
 その粗筋を詳しく説明すると、人間の精液を四十日間蒸留器で密閉し、精液が生きて動き始めるまで腐敗させる。次に人の形をした、ほとんど透明で非物質的なものの姿が現れる。これに毎日人の生血を与えながら、馬の胎内と同じ温度で四十週間保存すれば、ホムンクルスが出来上がるらしいのだが、人間を媒体に製造を行う場合は、妊娠のと同様に論じることは出来ないという。胎内での育成期間が二倍になり、その代わり腹が膨らまないとか、他にも違いはいくつかあったのだけれど――
「……へえ、アウトライナーの本名、張亦菲(チャン・イーフェイ)って言うのか。外国人だとは思っていたけど、まさか中国人だったとは思わなかったな。ああ……いや、そうか。暗器ってそもそも中国で作られた武器だっけ」
 深夜、午後の十一時過ぎ。
 ノートパソコンのディスプレイに表示された文字の羅列を目で追いながら、ぼくは慣れた手つきでキーボードを操作する。片腕だけの操作は気だるいものがあるが――何てことはない。ネット廃人にも近い一年間で身に付けたスキルが、妙なところで役に立ったなと苦笑する。
 ぼくは霧崎さんを一階下の707号室に連れていき、そこで彼女から話を聞くことにした。
 なんでもその部屋は隠れ家におけるISの私室らしく、確かに二人は同居していた。一建てのビジネスホテルに。合い鍵はヴァンから受け取ったので不法侵入ではないにせよ、仮にも他人の個室である。それも『とんだ美少女』と表現していいほどの。その合い鍵をごく普通に、平然とヴァンが持ち歩いていることに疑問がないわけではなかったが――この際、放って置くとする。
 施錠した部屋の扉を開け、中に入ってから、何かこの事件の助けになるものはないか――と、室内を見回りながら物漁を繰り返したぼくは、このノートパソコンを発見し、興味本位から立ち上げ、装填されていたフロッピーディスクの情報をドライブから読み込んだ。中に入っていたのは数個のブロックファイルとエデュメントが雇ったグレゴリオを除いた二人の殺人鬼の個人経歴で、ぼくは画面をスクロールさせながら、その詳細な調査内容に目を通しているというわけだった。
「……にしても、なんで文章が一文字抜かさず英語なんだよ」
 ドイツ語と英語は中学の頃の必修科目だったし、ちゃんと単位も取ってるから――まあ、読めなくはないけど。
 あのISって人も、他の国の出身みたいだしな……。
 現在に至るまで張亦菲が繰り返してきた無秩序な行為の数々から、彼女の人物像が段々と見えてきた。あの性格からして暗殺は苦手――というより、上手く殺せないだけなのだろう。手持ちの暗器は優れた業物だが、持ち主の思考が単調過ぎるのだ。だから、この資料にも惨殺か決闘じみた殺し合いの報告しかない。
 ……ん?
 無味乾燥なテキストを読み進め、ぼくはゴーストの項目に目を走らせたのだけれど――説明文の上に、あの白スーツの画像が添付されてない。不審に感じたぼくは、C言語表示で画像ファイルのプログラムを探るが、マシンコードがないので、ログを操作して意図的に削除したというわけでもないらしい。
 大沢財閥ほどの情報収集力を有する組織だ。洗い浚い経歴を調べ上げるよりも、よっぽど容易く入手することのできる人物像だけないなんて。
 なんなんだ……普段のぼくなら、きっとこんな些細な抜け穴は無視するはずなのに、どうしてもそれが気になって仕方がない。
「替えの上着、見つけたわよ」
 思索に行き詰ったところで、背後から声をかけられる。クローゼットを開け放ち、霧崎さんは手探り作業に没頭していた。手持ち無沙汰となった彼女には、ボロボロになったブレザーの代用品がないか調べてもらっていたのだった。
「しかし、ここで残念なお知らせです。履き物はレディースしかないわよ? さあ、どうするの?」
 振り向いた彼女の手にはシャツにジャケット、そしてなぜかプリーツスカートが握られていた。数分前の会話でハブられた仕返しなのか、執拗に、霧崎さんはスカートを手振りして見せる――ISの着衣は総じて一張羅のようだが、装飾の鎖は一点物らしく、衣類の付属品ではないようだった。
「いいんだよ。交換するのは上半身の衣服だし、それならメンズだからね。だから、そんな蔑むみたいな目で見るのはやめてくれ」
「……ああ、それで。なるほど」
「なるほどって……普通に考えればわかるだろ。どれだけ信用されてないんだよ、ぼく。余りのショックに泣きそうだよ。まあ、泣かないけど……泣かないけどさ」
 ここで押し問答を始めても仕方ないと悟ったのか、半ば強引に最上階の部屋から連れ出されても、霧崎さんは気の抜けた答えを返すばかりだった。
 ほどなく707号室に着き、了解を得た霧崎さんの手を借りて右肩の止血から始めようとる。だが、ずたずたになったブレザーとインナーを脱がせてもらったところで、ぼくは気が付く。なんと本来なら右肩にあるべき傷口が、焼けふさがっているではないか。衣服の下に隠れてわからなかったが、刺し傷はかなり深かったようで、ワイシャツにまで差した赤黒い斑点がまだ生々しかった。
 無意識に身震いする。これだけの出血の最中、人生初の大立ち回りで身体に余計な負担を掛けていたのだ。もし傷がふさがっていなければ、ぼくは今頃……。
 そうは言えど、しかしぼくはただの人間である。回復力も治癒能力もない、握力も兼ねて身体力など人並み以下。人間怪我の治りやすい生き物ではあるが、どこぞの戦闘民族でもあるまい。この展開は現実的にどう考えてもおかしい。
 そしてぼくは思い出す。この刺し傷の元凶たる殺人鬼ではなく、あの場にいた誰もが地に伏した自分を見縊ったものとしか見ていなかった護衛屋たる男の振る舞いを。
 ――まさか――まさか、あの男が――。
 確証のない推考なのに、ぼくは混乱する。あるのだろうか。そんな可能性があるのだろうか。グレゴリオの行動に意味などあるのだろうか。それがぼくにはどうしてもわからない――いや、実を言うと、あの男が都合よく動いた理由には一つだけ心当たりがあるのだが。
 それを霧崎さんに話すべきか暫し迷って――ぼくは何も言わなかった。今はまだ、ここぞという時じゃない。
 インナーを脱がせる際、霧崎さんは意識的にさり気なさを装ったのだろうが、こうしてじっくり見ると、右肩の火傷だけが異様に際立って見えた。不意に傷口へと伸ばした手が空を掴み、霧崎さんは自分の手をまじまじと見つめる。この火傷に対して、彼女は何か思いつめていたようだが、しかし、非日常とはおおよそ無縁の存在だった霧崎さんに謝罪の言葉が思いつかないのもまた事実であり、あのとき見たぼくの刺し傷がどうして焼け塞がっているのかということにすら、全く考えが及んでいないようだった。
「そう、でも、707号室在住の人って女じゃないの? 女子がメンズを普段着にしていてそれを別の男が着たら、それって女装することにならないのかしら?」
「えっと……」
 説得力があるぶん微妙に違う気もする。
 はて、どうなのだろう?
「……もしそうだとしても、ぼくに異性装の趣味はない」
「その言い方だと、現世くんには男装趣味でもあるようね」
「だからそれも違うって――いや、それが違う! 全然違う! ぼくは男だよ! それが普通なんだよ!」
「珍しく乗り突っ込みなのね」
「やれやれだぜ……」
 ユニットバスの蛇口を捻って、備え付けのタオルを冷水ですすぎ、つかつか、と、霧崎さんはベッドの上に戻ったぼくに歩み寄る。
 そして、ぎゅっと胸を寄せるように手を組み、遠慮っぽく斜め下に視線を落とす。
「ご機嫌斜めね。胸でも揉んでみる?」
「その発想はなかった。ありがとう、気持ちだけ受け取っておくよ」
 ちょっとふざけて充電したのか、霧崎さんは真面目な態度に戻り右肩の血痕をタオルで拭き取る。二人の姉妹には着替えを手伝ってもらった前例すらないし、しかもその相手が同じ歳の女の子だと言うのだから、ひんやり体温が奪われていく感覚に限らず、ぼくは妙に顔が火照ってくるのを感じていた。十六年足らずの短い人生を回想せずとも、これが自分にとって一番の醜態なのだろう。少なくとも、現時点では。
「けど、ああいう人たちがトランスヴェスタイトに走るのは、やっぱり人間が自分にないものに憧れるからなんじゃないかな」
 ぼくの頭と腕にシャツを通しながら霧崎さんは言った。
「かもしんね。心理学で、そういうのは中学の頃に学んだし」
「たとえば男子が三次元の女子にツンデレとかのキャラ立ちを求めるとか」
「…………」
 …………。
 五秒で真面目な話から脱線した。
 大事故だった。
「……それは憧れと言うより個人的な欲望だ。てか、きみ、さり気なく自分がツンデレじゃないと否定してないか?」
「現世くん、まさかリアルな女の子にそういうのを求めているの? なら言わせてもらうけど、ツンデレって勝手にいちゃもんつけて勝手に怒って勝手に二重否定するだけじゃない。『ね、ねえ。あたし、あんたと付き合ってあげてもいいわよ。……は? 告白なんてしてないわよ! べ、別にいいでしょ! あたしが付き合ってあげるって言うんだから、もっと素直に喜びなさいよ!」』とか、仮にあたしが男でそんな告白をされたら、即行で腹パンして相手を病院にぶち込んでやるわ」
「痛々しいくらいに正論だ!」
 かく言う霧崎さんも、その『ツ』から始まり『レ』で終る四文字の萌え個性を、それはもう十分なくらいに演じていたわけなのだが。
 骨折した右腕は慎重に扱って、霧崎さんはジャケットの着付けをほとんど一人でやってのけた。この辺、手先の器用さが明瞭に現れている。
「まあそれはともかく、現世くんの着替えも終ったところで、あたしとしてはどうしても訊いておきたいのだけれど」
「なんだよ?」
「このスカートはどうしたらいいのかしら」
「そんな小学生でもわかってしまうようなことをさも当然のようにようにぼくに訊くんだなきみは……。元の場所に戻せよ。人様のものだろ」
「その上着も含めて人様のものじゃない」
「そ、それは……っ」
「まあ、それならそれで。スカート、汚れちゃったし、こっちも交換しておこうかしら」
 言いつつ、霧崎さんはごく自然な動作で制服のプリーツスカートのホックを外しファスナーを下ろす。そのままスカートの中に、裾から両手を差し込んだ。
 そして下衣を脱ぎ始める。
 背筋をピンと伸ばして、スカートの中からは引き締まった白い太腿が覗か――ない。ぴっちりとした黒いスパッツを着用していた。それは霧崎さんのすらりとした肢体に驚くほどよく似合っている。
 白いふくらはぎになすすべもなく目線を奪われてしまうのは、健全な男子なら致し方ないことだが、そのとき胸の内に湧き上がった複雑な感情を表現するのに適切な言葉を、ぼくは知らなかった。
 語彙が貧困なのかもしれない。
 まあ、それは置いておいて。
「何してんの!?」
「落ち着いて、避難訓練のようなものよ」
「どこに逃げ込むんだよ!」
「え? この流れだと、スパッツの中にじゃないの?」
「むしろそれが一体どんな流れなのか、ぼくに説明して欲しいくらいだよ!」
「あたしのスパッツをいやらしい目で見ている男がいたから……」
「誰だそいつは、とっちめてやる」
「自分で自分を殴るの?」
 何て策士だろう。
 振られたネタを処理しただけだというのに、ぼくが非難される立場になっていた。
「そんなことより、このスカートついて語り合おうぜ!」
「スパッツに制服姿の少女を無視してスカートに手を出すなんて……現世くんは女子高生のフレッシュ食べごろボディよりも尚スカートを選ぶと言うのね」
「強引に話題を変えようとしたのがあらぬ誤解を招いてる!?」
「ええと、今まで肌に密着していたものだから、体温も移っているし、匂いも――そうね。いいわ、粗品だけど、それで現世くんの溜まりに溜まった性的欲求が解消されるなら、どうぞ受け取って頂戴」
 霧崎さんは悪びれた風もなくにっこり笑った。
 本人に恥じる様子はなく、メタファーもへったくれもないのだろうが、しかし、ぼくにはそれが極悪人の笑みにしか見えなかった。
 流れで、何の気なしに手に取ってしまったスカートを見てから、ぼくは霧崎さんに視線を移す。躰の線に添った学生服の作りからその体躯の細さはわかっていたが、こうして直に見ると、細身ながらもしなやかで柔軟そうなつくりをしている。
 インドア派だからか日焼けもしておらず、白い肌はスパッツとのコントラストによっても映えるが、同系色でも十二分に引き立っていた。
「いや、いやいやいやいや……遠慮しておく。同学年の女子から着衣をプレゼントされたなんて姉妹に知れ渡ったら、あいつらはにべもなくぼくを殺す」
 にべもなくと言うか、造作もなく。
 ぼくは思わず力が入って握り締めてしまったスカートを、霧崎さんの胸に押しつける。
「ひゃ、ぁ……んっ」
「ひっ……!」
 思わず手を離す。
 霧崎さんの口から漏れたのは同一人物とは到底信じがたい艶かしい声音だった。
「何? びっくりするんだけど」
「だって現世くん、いきなり胸を触ろうとするんだもん」
「微々たるものじゃねえかよ……こんなやり取りが毎度毎度行われるんだったら、ぼくはきみの身体に一生触れることはないぞ」
「とか言って、本当はちょっと触りたいのでしょう?」
「はは、きみは何を言っているんだい? ぼくは清廉潔白なんだぜ? 清廉潔白を旨とする人間が、そんな、女性の胸に欲求を抱いているわけないじゃないか」
「そんな物欲しそうな目で見つめて……」
「してねえよ、そんな目!」
 霧崎さんの面持ちは不謹慎に真剣で、申し出も魅力的だが、クラスメイトの女の子と一緒に禁忌を犯している背徳感をひしひしと感じるぼくだった。
 口をへの字にしてそっぽを向く。
 無力だった。
「あたしの数々の誘惑を、こうもあっさりスルーしてくれるなんて、思いのほか自制心があるのね」
 なに、その『実は試していた』みたいな言い方。
 だけどそれを語る霧崎さんの表情は、二人の会話が全て終わり過ぎ去ったことを示すようにあくまで穏やかだった。
 霧崎さんは替えのスカートに手を伸ばし、身を屈めて片方ずつ足を通す。きちんとスカートをウエストまで引き上げるとブラウスの裾を押し込んで整えて、横側についているファスナーを閉めてホックを止めた。
 スパッツを穿いた少女がその上からまたスカートを穿くというのは、傍から見ればとてつもなくシュールな姿だった。
「ふう、冗談はさておき」
「どこからどこまでが冗談だったんだ?」
「血がついちゃってるけど、ワイシャツ、破ってもいいよね? 右腕の固定に使いたいのだけれど、ここのシーツを引き裂くわけにもいかないし」
「いいよ。どの道、ぼくらの鞄もあの場に置いてきちまったし……そう言えば悪かったね。折角の自転車、駄目にしちゃって」
「ああ、あれね。いいのよ、別に深い思い入れもないし。先生に嘘をついて了解を得たのだって、もっと自転車に乗ってみたかっただけだから」
 ぼくの隣に腰を落ち着け、横座りで上体を捻って、霧崎さんは血液が附着した部分を切り離すように両手に力を込めた。あっさりと引き千切れていく繊維を見て、自分が纏っている衣服とはこんなに破れやすいものなのか、と感心する。
 ほんの一歩二歩のことだったが、ぴったりくっつくほどの距離。
 でも、それを聞いたぼくは驚いたように霧崎さんを見た。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。話の内容が抽象的すぎてよくわからないぞ。嘘をついて――なんだって? じゃあ、きみの病気は……」
「関係ないわ。でも、あたし、そんなことは一言も言ってないわよね?」
「それは、訊いてもきみが話をはぐらかすからだろ」
「そうね」
 霧崎さんは自嘲気味に肯定した。
 否定はもう無意味だと言うように。
「……ほんと、そうよね」
「霧崎さん」
「ごめんね、現世くん。あたし、悪い子だから……嘘をついてました。謝ります。だから今だけは、こんなあたしを許してください」
 口調は冷静なのに、霧崎さんは絞り出すように言った。ぼくは彼女が何を言っているのかわからず、だから何も言えない。逆さにしたってひとかけらも答が出てこない。
 霧崎さんは、そんなぼくの左手を、ぎゅっと握って引っ張った。
 もう片方の手で顎を取ると、こつんと額をくっつけ、そのまま――左手を自分の首筋まで誘導する。
 ぼくは赤面もせず、むしろ愕然としていた。
 霧崎さんの手は、強固な意志に満ちているわけでもなく緊張に震えていたから。
 これから『霧崎さんが何を言い出すのか』を悟って、愕然としていた。
 一瞬の間を置いて、自分の喉が鳴る音が聞こえた。これ以上得るものはない、といった感じで、ぼくは左手を離す。
 想像に難くない。
 なぜならぼくは、それを一度自分の口から他人に向けて告げているのだから。
「……ねえ、現世くん。あの虎太郎さんっていう人、自分には心臓がないって言っていたじゃない」
 マンガやアニメみたいな奇妙な世界の話をするのね――霧崎さんは囁くように言った。
「急に脈絡のない話をして申し訳ないのだけれど、あたしって、正直あまりマンガだとかアニメの類は好きじゃないのよ。だって所詮作りものだから。最近の流行を取り入れて人物設定や話を構築して、共感できるように、泣けるようにとお約束の場面にお決まりの予定調和を用意して。それがわかってしまうから上手く物語に入り込めないのよ。――でもね」
 しかし想像を絶する。
 ぼくが触れた霧崎さんの首筋。
 その総頚動脈には本来伝わってくるべき心臓の拍動がなかったのである。
 それはまるで――
 あの、ハートレス・ソルジャーのように。
「あたし――自分が嫌いな物語の中で誰かに親近感を抱いたのは今日が初めてかも」

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