箱と聞いてまず初めにぼくが思い浮かべたのは、エルヴィン・シュレーディンガーの量子力学論だった。
この有名な物理学者が説いた猫の話はご存知だろうか。
密閉した箱の中に一匹の猫がいるとして、中には猫の他にも放射性物質、放射線の検知器、ハンマー、青酸ガスが入った瓶が詰め込まれている。この放射性物質が一時間以内に放射線を発生する確立は五十パーセントであり、それにより検知器が作動し、連動したハンマーが毒ガスの瓶を叩き割り猫が死ぬという仕掛けだ。
これらの条件の下で一時間後に箱を開いたとき、生きた猫、死んだ猫を発見する確立は共に何パーセントか。
解答は至って単純明快。
生きた猫を発見する可能性は五十パーセント。
死んだ猫を発見する可能性も五十パーセント。
箱を開く前にはもう、中に生きた猫がいるのか、死んだ猫がいるのか、そのどちらか一方に決まっている。
だけどその結果を証明するには――誰かが箱の中身を覗き見る必要があるのだ。
覗き見なければ、それはあくまで個人的な解釈の問題。
ならば、箱の役割を人間に置き換えたら。
どうだろう、出会って間もない彼女の中には、一体何が入っているのだろうか。
なんなのだろう、彼女は。
そうは思うけど、ぼくにわかる話などではない。
なんにせよ、やはり見た目通りのままであって欲しいし。
それが一番なんだろうけど。
しかしまあ。
そんなことは考えるだけ何の意味も成さなかったに違いない。触れてはいけないと知っていたはずなのに――結局、その箱を開けずにはいられなかったのだから。
そして今回も、全てが終った後に。
ぼくは後悔しながら、無気力にこう思うのだろう。
――失敗した、と。
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