グレゴリオ/フリーの護衛屋「…………」
くそ、どうする?
ぼくは、どうすればいい?
ちらり、と、霧崎さんを窺う。
しかし、その瞬間――彼女は。
霧崎赤音は、斜めに崩れ落ちていた。
ぼくの目先で。
どさり、と。
蹲るように、アスファルトの上へと倒れこむ。
そして――血を吐いた。
吐血だった。
べしゃり。
「う……あ、ああ――ぁ」
それは、とてもおぞましい光景だった。
霧崎さんは、血走った目で、息継ぎも慌しく、喉から胸にかけて皮膚と制服を掻きむしる。
寿命を削るがごとく。
激痛に耐えるように深く下唇を噛み、皮膚が裂けて血が滲む。だが、そんな出血は気にならないほど、彼女の口周りは既に血だらけになっていた。
なんだこれは。
ぼくは驚き通り越してもはや絶句していた。
霧崎さんの苦しみ方は普通じゃない。普通にも見えない。もしやこれが中学の頃から付き合ってきたという病気なのか? いや、病気って、見るに不自然だ。まるで何か細菌兵器の実験台にでもなっているかのような――この症状には、そんな生々しさがある。
身体の内側にわるいものを飼っているようにしか思えない。
落ち着け。落ち着け。ぼくは自分に言い聞かせる。冷静に考えろ。何が起きているのか、冷静に見極めなくては――
しかし、相手がぼくを落ち着かせない。テレビゲームはポーズを掛けられるけれど、現実世界はリアルタイムで動いているのだ。時間が止まるはずも、ゆっくり思索を巡らせる暇(いとま)があるはずもない。この状況で一瞬でも余所見をしてしまったぼくは、結果的に多大な隙を作ってしまった。
「まったく割に合わないな――しかし安心するといい。僕は少女以外を殺すつもりはない。それが少年なら尚更のことだ」
いつの間にぼくの背後まで移動していたのか。
ゴーストの声に振り返った頃には、ぶん、と、大鎌を持った右手が、ぼくの胴体へ曲線的に薙ぎ払われていた。
ただし、峰打ち。
無名のスラッガーがバッドを振るうように、豪快なフルスイングがぼくのどてっ腹を叩く。ごふ、と。身体をくの字に折ったぼくは、もはやみっともないくらいの唾液と血汁を吐き出し、ぶちまけ、刹那、身体が宙に浮かぶのを感じた。
視界が瞬間で暗転し、秒間で回転に移行する。ジグザグに高速回転するスピナーみたいに上下左右と言わず四方八方から脳髄を弄ばれ、網膜の映像が捩れ、捩れ捩れて、トップスピードを維持したまま、ぼくの身体は受身を取る余裕もなく、無機質なアスファルトに、思い切り叩きつけられる。
物凄い飛距離だった。
自分がどこまで吹っ飛ばされたかもわからない。
地球を一周したのでは、と思ったくらいだ。
「かはっ……はあ……っ! ごほっ!」
本当に殺されなかった。
だが――その一歩手前だ。
酸素か、血液か。どちらにせよ、頭がくらくらする。次の一撃が決まる前に起き上がろうとするが、身体がびくんと痙攣し、あっさり地面の上に崩れ落ちてしまう。もう下手に動くこともできない。もしかしたら肋骨が全てへし折れているのかもしれないが――いや、大丈夫だ。多分一本も折れてない。だから、これでかなり手加減されたほうなのだろう。息の根を止めないぎりぎりの力で、ぼくを再起不能に――まったく、なんて器用な殺人鬼なんだ。
「あ――く、う」
や、ばい……。
もたもたしてると……本当に、死ぬ……。
霧崎さんとゴーストの姿が遠目に見えるが、同時にアウトライナーもまた遠い。どうやら、カス当たりでないにせよ、とんでもない距離を吹っ飛ばされたようだった。腹を貫通してないのが奇跡みたいだ。だが、追尾能力を露見したあの連結鎖の前では、もはやこの距離感は何の意味もなさない。まさしくまな板の上の鯉だ。
あとは料理されるだけ、みたいな。
でも、待てよ……直線的に飛んだってことは、ひょっとして、遠からずぼくの近くには――。
やっぱり、あの金髪サングラスがいた。
しかも寝返りを打って目の前とか。
護衛屋は、相変わらず面倒臭そうに煙草を吸っていたが――突然、サングラス越しの冷たい目を、虫の息になっているぼくに向けた。この距離じゃないとわからない、アウトライナーと五分かそれ以上に冷徹な眼差し。心臓をわしづかみにされた緊迫感があった。そのままヤンキー座りになって、火の点いたままの煙草を人差し指と中指でつまみ、そして、それを――
「ぐあああっ!?」
右肩の刺し傷に押し付けた。
傷口に塩を塗りこむような真似をされた。
絶命寸前の幼虫みたいに、身を竦めるぼく。
忘れていた――こいつも、今は、ぼくらの敵対者なのであった。てっきり、何もしてこないから、護衛屋のスタンスは『正当防衛』だとばかり思っていたのだが、どうやらそれは、ぼくひとりの愉快な勘違いのようだった。
煙草を地面に捨て、靴裏で踏み潰し揉み消す。
自然環境保護運動の敵対者でもあったらしい。
この時代――ポイ捨て禁止条例が制定される自治体もあるというのに。
「あーもー、ホント時間無駄にした。盛大に無駄。どんだけ動き回るんだよ、お兄ちゃん。一昔前の特撮ヒーローみたいじゃねえかよ。ああ、変身前のな。変身すんのか? しねーよなあ。つっても、おれは喜んでんだぜ。さっきはちいとムキになっちまったが、少なくとも……おれが喰っちまった奴らなんかよりは、よっぽど鉄分が豊富な『食料』に見える」
反射的に再度寝返りを打ちそうになったが、立て続けに突き出された脚がぼくの動きを固定した。しかし、
「けらけら」
それはスタンピングだった。力加減など一切せずに、アウトライナーは容赦なく腹の辺りを踏みつけてくる。
繰り返し。繰り返し。繰り返し。
いつかぼくに恋人と呼べるひとができたらプライドを投げ捨ててでも決行したかった特殊性癖の、その一つ(実際には顔面で踏みつける側がぼくなのだが)を、よもやこんな場所で殺人鬼にしてやられるとは――ドーハの悲劇の再来だった。
ぼくの反応などまるで気にせず、踏みつける。踏み続ける。
「けらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけらけら」
う、嘘だろ。
こいつは――ぼくを、捕食するつもりなのか?
「うぐぐっ……」
「言っとくけど、血液を武器に一死報えるとか考えてんなら月夜に提灯だぜ。おれに血球抗体は無意味――誰の血を摂取したところで、溶血や凝集は起きねえんだ。お兄ちゃんがヒーローってのはあくまで言葉の綾だが、んならおれはさしずめ改造人間ってとこかな――身体の内側もてめえで弄繰り回して、もうぐちゃぐちゃなのさ」
ぼくに顔を近付けて、アウトライナーは続ける。
「人間が人間を喰うのはおかしいっつってたな――けらけら、何にもおかしくねえよ。んなのは、ただの精神論だ。腹が減ったら何かを喰うってのは、生物の基本的行動原理の一つなんだよ。欲求でもあるな。人間の三大欲求、言えるかい? 雌の蟷螂は産卵に必要な体力を補充するために交尾の相手を喰っちまうらしいが、これは嗜好なんかじゃねえよ。子孫を残すための本能なのさ。雄ライオンが雌ライオンの連れ子をぶっ殺すようにな。人間を喰う理由はもちろん刷り込み半分だけどよ――おれの殺人鬼としての血をより深く残そうとするためでもある」
精神論だとか、血筋だとか、正気で言ってつもりなら、狂ってやがる。
いや、それで、正常なのか?
ゴーストも最初からそう言っていた。
殺人鬼というものは、誰もが心に病を患っている。だとすれば、単純に、体内に巣食う『人肉嗜食』というウイルスが、アウトライナーの行動原理の全てなのだ。そしてそれは、『人食』という生命活動を促進させ、無意識の内に増殖を繰り返し、あまりにも貪欲な肥大化を遂げてしまった。引き止めた医師までも殺し、喰い、もう自分自身でも手がつけられないくらいに。
まるで寄生虫みたいだ。
個人を蝕み、人間としての在り方を歪ませる――
『殺人鬼』という名の寄生虫。
「…………」
アウトライナーが脚をどけたので、ぼくはようやっとして寝返りを打つことができた。目を凝らして霧崎さんの様子を窺うと、吐血は収まったようだが、今度は絶息状態になって喉をおさえている。例の病気は、まだ発症を続けているらしい。
「可愛そうだ!」
何か叫んで、ふらつく足取りで、ゴーストの身体が地面に崩れた。
膝立ちになると、何か悲しいことでもあったように、本当に心の底から哀れんでいるかのように――声をあげて泣き始める。
泣いていた。
あの殺人鬼が。
「だってそうじゃないか! 赤音ちゃんはまだ十五歳だぞ!? 女子高生になったばかりなんだよ! 夢や希望に胸を膨らませていい年頃なのに! なのにどうして、ここまで苦しまなければならないんだ! ああそうだとも、どうして、どうして世界の流れはこうも過酷な試練を少女に与える……」
しゃっくりをあげ、袖口で目尻の涙粒を拭き取る。
「僕は、君を殺す」
大鎌を手繰り寄せ、立ち上がる。
「――せめて、その苦痛が少しでもやわらぐように」
がちゃん。
鎌首をもたげる音。
大鎌が、霧崎さんの首の皮一枚に、ぴたりと触れる。それはまるで、古めかしい斬首刑を連想させるような相手の動きを微塵とも許さないギリギリの寸止めだった。
「許してくれ、赤音ちゃん。だけど僕は、私利私欲を満たすのではなく、ただ純粋に君を殺したくなった。助けてやりたいと思ったんだ。それだけは、偽言なんかじゃないと、どうか信じてほしい」
しかし、首は頂くつもりらしい。
もっとも、殺した人間の首を持ち去ったところで、所詮それは道徳観念に背くような奇行でしかない。
死人に口なしだ。
「最後にお兄ちゃんの名前くらい聞いてやるのもまあ、悪くないとは思ったけどなあ――考えてみりゃあ、おれはぶっ殺した相手の名前をいちいち覚えていられるほど、頭よくねえんだわ」
上から声をかけられ、ぼくは仰向けに、蹴飛ばされる。
じゃらん、と、ぼくを殺す道具が音を鳴らした。
「――あー……」
チェック・メイト。
あるいは、王手。
どちらにせよ、これで決着だ。
対の世界。
これが、殺人鬼たちが闊歩する殺戮の世界。経験値以上に、レベルが違う。格が違う。ぼくは――ぼくは、この世界じゃ、ここまで無力なのか。
見事なくらい、何の役にも立っていない。
完膚なきまでに無力。
まったくさあ。
でしゃばってんじゃねえよ。
適材適所。
その言葉を誰よりもよく知っているのは、このぼくのはずなのに。
「…………」
無気力に目を瞑る。
霧崎赤音、不良少年共、情報屋、アウトライナー、ゴースト、護衛屋。
今日見聞きした人間たちに、一通りの点と点が繋がった。
だが、ぼくは思わざるをえない。
虎太郎さん。
頭の中の相関図には、あなたがいないんですよ。
あなた誰なんです?
ぼくと因縁のある人間なんですか?
ぼくらが出会ったのも何かの予定調和だったんですか? あなたは、それを知っていて、ぼくに近付いてきたんじゃないんですか? それとも本当に、このぼくと同じ脇役にすらなれないただのエキストラだったんですか?
「――……」
既に。
生に執着はない。
自殺願望があるわけじゃないけれど、ぼくに思い残すことなんてない。考えれば、霧崎赤音を守り抜く義務も、義理もないのだ。結局、今回もぼくがひとりで勝手に舞い上がっていただけなのであった。そしてそんな偽善者気取りの裏側には、姑息な入れ知恵があったはずだ。助けてくれ、死にたくない、同級生でも殺人鬼に売り渡してやる――そういった、卑怯卑劣な思惑が。
だけど、それももういい。
ぼくはここまでだ。
命を諦める。
誰にも止める権利はない。
いや、違うか。
ぼくには最初から止めてくれるひとなんていないのだった。
そういう存在を羨ましいと思ったこともあったっけな。
だったら最後くらい家族に謝っておくのも悪くない。
父さん母さん。
二人の姉妹。
いっぱい迷惑を掛けて、ごめんなさい。
そして。
生まれてきて、すみません。
――さようなら。