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(5)境界線



 閑話休題とは、文章で余談をやめて話を本題に戻すとき、接続詞的に用いる語を指すという。なるほど、だとすれば、今日一日だけで言うなら間違いなく、ここらで閑話休題、という感じだった。考えてみれば、登校初日に一方的な袋叩きに遭い、顔も身体も痣だらけになった人間が、そのままクラスの授業に出るなど、理屈通りなら有り得ない。もちろんそれは、火の中にも三年いられるような、図太い神経を持ち合わせていない、意志薄弱な人物に限った話になるのだけれど、それで特別範囲が狭まるのかといえば、そうでもない。この流れなら、大抵の男子はとって返る。これから一年間やっていく担任とクラスメイトに無様な顔を見せるくらいなら、学校を切り上げて、家に帰るなり病院に向うなりするほうが定法というものだ。ぼくの場合も例に漏れず、結果的にはそこに落ち着く形になった。しかし、夜間でも校内施設は機能している。別に、ぼくは殴られて切れた頬も気にならなかった。気にならないし気にもしないのは、他人に蔑まれるのには慣れきっているからだ。途中、保健室に寄って湿布と絆創膏の一枚でももらえればそれでよかったのだけれど、霧崎さんは保健室が苦手だという。世話になるのはぼくのはずだが、保健室は苦手だ、だからあたしが治療してあげる、とこちらのターニングポイントを適格に狙ったような交換条件を持ちかけてきた。意味不明である。この子はそうまでして罪の意識を払拭したいのか、それともただの馬鹿なのか。たぶん、どっちもだ。けど、まあ、ぼくもやぶさかではなかったので、そのまま学校を離れ――現在、ぼく達は住宅地を歩行中というわけだった。
 霧崎さんの家はぼくの在住アパートより学校に最寄で、距離ないし体力的な理由で学校側から自転車通学の許可が出ているらしい。
 その自転車、今はぼくが手で押している。痛みのせいで思うように関節に力が入らず、なにかに手をかけていないと下手に立つこともできないのだ。本当は会話の切り出し文句に引き受けたのだが、ダメージが回復するまで借りておくとする。
 通学に車を使わない理由を、ぼくは訊かなかった。
 そこら辺は、会話の脈絡から、なんとなく察した。
 遅刻の原因も――たぶん、この考えで合ってる。
 そして霧崎さんが保健室を苦手とする理由。
 ぼくには、彼女の気持ちが、少しわかる気がする。それは、ぼくも似たような立場に身を置いていたからだ。閉鎖空間っていうのか、あんな狭い部屋に閉じ込められて、四六時中身動きが取れないと、ああいう場所そのものに対しての耐性がなくなってしまうのだろう。
「ふうん――現世くんって代官山中だったんだ」
「まあ……そうだけど、クラスの奴らには言わないでくれよ」
「あら、どうして? 代中といえば県内でもそれなりに名が通った公立の進学校でしょう、もっと鼻高々に自慢しなさいよ。へし折るから」
「折るなよ……てか、だからだよ。そんな奴が定時制になんているのが知れたら、ぼくは一生世間の笑いものだ」
 まあ、その点じゃ今日は切り上げて正解だったかもしれないな。
 ホームルームで自己紹介があっただろうし。
「……本当にわからないわね。そんな奴がどうして定時制になんているの? どれだけ現世くんが底辺にいた落ちこぼれでも、代中出身なら朽葉学園の偏差値くらい、全日制でも余裕綽々じゃない?」
「きみは一つ勘違いしているようだけどね。ぼくって入学してから一年次までは真面目の塊で、勉強も絶好調、運動も絶好調、対人関係もそれなりによくてさ、事実上代中のトップを死守してたんだ」
「へえ、すごいじゃない。それじゃあ二年始から落ちこぼれになったの?」
「頼むから、そういうことはストレートに訊かないでくれ」
「え? えーっと……人間廃棄物になったの?」
「前言を撤回する。きみは物事を遠回しに言えば言うほど深みにはまる種族みたいだ」
 この子に「直球で投げてください」ってボールを渡したら全部消える魔球で投げちまうんだろうな。しかも、まったくの無意識で。
 まったく。リアルに嫌な話だった。
 社会的に抹殺された気分になる。
「露骨に言えば、落ちこぼれで正解だよ。なんっつーか。ちょうど二年に進級するくらいのときに夢中になれる趣味ができてそれに没頭しちゃってさ。一年のときにぼくの成績がよかったのは、ただ単に無趣味なだけだったんだよ。ほら、よくいるじゃん。なんにも趣味がないから、とか言って暇潰し程度に勉強を嗜む奴。ぼくもあの人種でね、でも、今まで機械的に生きてきたぶん、一度楽しみの味を覚えたら、深みに嵌ったみたいになってこれがなかなか抜け出せないでさ。結局、三年の夏になるまでろくに学校にも行かないで、あれよあれよとここまできちゃった感じ」
「ふうん。人は見かけによらぬものって言うけど、現世くんって相当の苦労人だったのね」
「別に、普通だよ。それで、霧崎さんはどんなスクールライフを送ってきたんだい?」
 ぼくは何となく訊いてみる。
「あたしは三年間、ずっと引きこもりでした」
「…………!」
 何となくで訊いちゃいけない答が返ってきちゃった!
 直球勝負を仕掛けたつもりはなかったのだが――いや、そもそも消える魔球はどうした。もしかして、ぼくが難癖つけたから直球に切り替えたのか?
 だとしたら付和雷同だ。
「えっと、あの……ごめんなさい」
「現世くんは一つ勘違いしているようだけどね」
「ぼくの真似をしないでください」
「違うのよ、あたしが引きこもっていたのは保健室なの。サボタージュするのには最適のはずなのに、二年以上ずっと同じ空間にいると、だんだん刑務所じみてくるのよ。隔離されたみたいでね。だから現世くんが保健室に行くって言い出したときは、正直――」
 ゾッとしたらしい。
 言葉からして、もう駄目だったらしい。
「まあ、そうは言っても、別に友達がいなかったわけじゃないのよ。調子がいいときは、ちゃんと授業にも出席してたし。現世くんは友達百人できるような人間には見えないから復学してからの汚名挽回は――」
「名誉挽回です」
「――名誉挽回は自力だったんでしょうけど、あたしはノートとか借りてたもの」
「百人の友達からか」
「四人くらい?」
「中学女子の理想的な仲間数だな! しかし、それでぼくがとやかく言われる筋合いはない!」
「百人と四人くらい?」
「さり気なく訂正するな! もうバレバレだ!」
 いつの間にか、消える魔球に戻っていた。
 嘘吐きだなあ、この子って。
「思えば、スクールライフなんて二の次って感じだった。だからかな、あたしも、現世くんみたいにあれよあれよとここまできちゃった感じ」
「…………」
 ぼくみたいに、ね。
「どんな病気なんだ?」
「――え?」
「重病なのかどうかは知らないけどさ。保健室通いも、それが原因なんだろ? 見た目も疲弊してる。ぼくの場合は自業自得だけど、きみはぼくに通じるところがないからな」
 実際、さっきからそれが一番不気味に感じているところでもあるのだが――重病なのか急病なのか難病なのか奇病なのか時病なのか疫病なのか悪病なのか宿病なのか。霧崎赤音を、保健室に二年以上も追いやった、その病気は。勿論、かかりつけの病院にも行っているのだろうが――だとして、彼女はどうしてここにいるのだろう。まだその程度じゃないのか、それとも意気地を立てているだけなのか。
 はなはだ不思議だ。
 だから訊いた。
「…………」
 霧崎さんは答えない。
 答えられなかったのかもしれない。
 そして歯切れ悪そうに舌を打つ。まさか今日知り合ったばかりの人間にされる質問だとは思っていなかっただろうが、しかし、露骨に顔をしかめた霧崎さんは、どうやら静かに憤慨しているようだった。
「それより、さっきの。現世くんは気にならないの?」
 はぐらかされた。
 まあ予想してはいたけど――やっぱり、ぼくじゃ信用が足りないか。
 足りないっていうか、薄いんだよなあ、きっと。
「さっきのって、あいつらがあっさり見逃してくれた?」
「そんな見てくれであっさりとか言われてもだけど――うん。ケータイ片手に情報がどうのこうのと言ってたじゃない。新しい女探しに行こうぜーとか。本当、脳味噌腐ってるわよね」
「……情報、ね」
 悩む素振りをしながら、ぼくは嘆息する。
 終った話だけど、やっぱり気になるんだろうな。ぼくらの窮地を一度に引っくり返し、霧崎さんの知的好奇心を見事に刺激してくれた、あのメールが。
「おーいおいおいおい」
 とか、気の抜けた声に続いていきなり後頭部をぶん殴られる。ずどん、と地面に倒れ込み、また意識が遠退いた。三人はハードパンチャー。ぼくの頭がサンドバック。霧崎さんは傍観者。一人がぼくを羽交い絞めにし、二人がぼくを強打する。それは終わりのないゼロサムゲームだった。
「君さぁ、なんで殴り返さないの?」
 ぼくを引き起しながら誰かが言った。
「なんつーか。カッコばっかでザマないですねー。あんなこと言っちゃったくせに、一発もカマさないのはどうかと思いますよー。もしかして君、感情のパルスとかないの? ああ、あれだ。こういうのって、言わずともポリシーが大事なんだよね、ポリシーが。んじゃ、お手本に僕のポリシーを教えてあげようかな。殴られる前に殴る、殺される前に殺す。どうだい? 実に合理的なポリシーだろ?」
「……先行的の間違いだろ」
「うるせーんですよ! 先生よぉ!」
 途端、背中に回し蹴り炸裂。
 背骨が軋み、咳き込んだ。いつの間にか口の中が切れていたらしく、赤い粘膜のようなモノが飛び散る。唾液にも鉄の味が混ざっている。
「ド派手にキメたねー。蛇谷くん、マジでキマってる! 俺らキメてキマってる! みたいな? やっぱ手加減とかするもんじゃねーよ。難しいっつーの! あやうく殺しちゃいそうになったりで大変だからよ!」
「おいおい、あんま調子に乗り過ぎんなよ。頭狙ってもいいけど半殺しな、お前らも、入学早々退学処分は勘弁だろ?」
「わかってるよー。てか、こいつ命乞いもしねえし。許してくださーい、とか言わねえし。人間らしくないっつーか、なんか人形でも殴ってるみたいだぜ。命名、人間サンドバッグ。うっわ、なにそれ! マジウケるんですけど!」
「でさ、君――霧崎赤音ちゃんだっけ? 正直、こいつボコるのもそろそろ飽きてきたんだよね。僕たち、こう見えても根はケッコーいい人属性だからさ。おとなしくついてきてくれるなら解放してやってもいいけど、どうする?」
 途切れていく思考。意識を維持し続けるのが、やっとだ。
 ただ、少年の理不尽な要求に霧崎さんの顔が青ざめたのは、背後を振り向かなくても分かった。
「――――、っ」
「はい黙ってるとそのぶんこいつ殴るよー。うんそうだ、一秒一発ね。今度は制裁的な意味もこめて手加減なしで思い切りやってやるよ」
「なっ……なによ、それっ! もう、十分じゃない!」
「あー本当に可哀想だ。出来の悪いマンガやアニメならここでこいつが殴り返して説教するんだよね、僕達に。でも、そういうのとか、ないから。そういうのって、空想世界のお話だから。ここ、現実だから」
 だから――力の差は歴然です。
 んなもん、言われなくてもわかってんだよ。
 でも、我慢しろ。ぼくは非力で貧弱だ。こいつらに勝てる見込みなんて、はなから万に一つ、億に一つもないだろうけど――それでもさあ。
 勝てる見込みがないからって終るのも早いわけじゃないんだ。なのに、ここで負けを認めたら、ぼくはきみを一生軽蔑するぞ、霧崎赤音――。
「ぼくは暴力を――振るわない」
 精一杯、呟く。
 それは、誰に。
 何に対して向けた言葉なのだろう
「暴力じゃ何も解決しないんだよ。こういうのは被虐側の反応が可虐側の快感を絶頂の域にまで高めるんだ。なのに許しを乞うなんて、事態をややこしくする以外のなんでもないだろ。暴力に酔った人間は善人でも悪人でもない――ただの愉快犯だ。それだけ残虐になるんだ。だから喧嘩もしない。もう一度言う。いや、何度でも言う。ぼくは喧嘩をしない。だけど――」
 自分でもよくわからないまま、ぼくは言った。
「――抵抗はする。許してください、とも言わない」
 どうしようもないくらいの憎悪の渦巻き。
 素肌に纏わり付くような敵意と、バックグラウンドにある悪意。
 感情のパルスは、ないと言えば嘘になるけど。
 ぼくが我慢しないでどうする。
「……説教のほうが先に出ちゃったよ。ったく、順番違うっつーの」
 ぼくの言葉に、「はあ」と力のない返事する。
 ポリポリと頭をかき、とぼけた表情。
「シラけた。おいお前ら、センコーもいないし、もうこいつブッ殺しちまおうぜ」
「……! や――やめて!」
「やめないよ。そもそも赤音ちゃんのせいだっての、見てわかんないの? いつまでも君が優柔不断のままだから、こいつだってこうなってるわけだし――」
 いや――違う。
 そうじゃない。巻き込んだのは霧崎さんだとしても、これは、ぼくが勝手にやっていることだ。
 だから、それを他人にどうのこうのと言われる筋合いは――ない。
「――まるで知り合いみたいな立ち振る舞いだったけど、あれが口から出任せだってのくらい、僕でもわかるよ」
 そんな笑い声が聞こえる。
 だからなのか、変に肩の力が抜けるのを感じた。休息をくれと、身体が叫んでいる。荒唐無稽の停滞感と度重なる暴力に、ぼくの視界もホワイトアウト寸前――――
 いいのかな、失神しても。痛いし苦しいし。


「――――」


 着信音が鳴った。
 本当に唐突で、居並ぶ誰もが動きを止めた。少年の一人が気だるげに携帯電話を取り出し、ヒンジを開いて画面を凝視する。その動きに、ぼくは違和感のようなものを感じていた。いや、違和感というよりは、既視感――と言った方がいいのか。これによく似た光景を、ぼくは数分前にも見ている。
「蛇谷さん、情報屋の先生からです。新しい女仕入れたから、そのヤサい男と霧崎赤音からこっちに乗り換えろって。うわ、すっげ。しかも写メ付きですよ!」
「……お前、今スゲーいいトコだってわかって僕に言ってんのか?」
「で、でも。俺らのこと、ずっと見てるって」
 携帯電話を握る男子生徒の手が、ぶるぶると小刻みに震えている。
「こいつをボコり始める前から、ずっと見てたって。従わないと、裏サイトに顔写真と個人情報をバラ撒いて、懸賞金を――懸賞金をかけるって!」
「は――――?」
 しきりに辺りを見回す、三人の不良少年。何かに怯えているようにも見えたが、その言動は明らかに異常だった。
「クソ――あの情報屋、何考えてやがる!」
 少年は、苛立ちに蹴り飛ばした。
 仲間の一人を――だった。
「……チ、興醒めだ。行くぞ、お前ら」
 踵を返しかけて、少年は、たたらを踏んだ。
 そして、息も絶え絶えのぼくと背後の霧崎さんを振り向く。
「これで一件落着だなんて思うなよ……もう顔は覚えた。それに、二十四時間は有意義に使わなきゃだしな」
 言うが早く、方向転換して、ぼくが来た道を逆に引き返していく。
 しばしその後姿を見守り――
 完全に見えなくなってから、よろめく足取りで霧崎さんが近付いてくる。
 誰一人として予期しなかっただろう。
 呆気に取られるほど、順不同で、意図的な幕引きだった。
 それから二人で学校を出て――今に至る。
 奇妙な停滞感。
 思えば、道案内はここまででいい、と虎太郎さんが話の腰をへし折ったのも、あんな感じにメールの文面を読み込んでからだった。だとすれば、この一連の流れが全て情報屋の手のひらの上だとすれば、それは、話を大前提から引っくり返すというより、たぶん、情報操作による……
 誘導?
 田中虎太郎と遭遇したのも、不良少年に霧崎赤音の遅刻をリークしたのも、こうして目的地も決めずにぼくらが歩いているのも、レールを切り替えるように……
 登場人物を動かして……
「……いや、考えすぎか」
 こんな、益体のない思考。
 胡乱な頭を振り、ぼくは視線を霧崎さんに移す。
「霧崎さん」
「なに? 現世くん」
「この街って、最近物騒なの?」
「そう聞くわね」
 即答する霧崎さん。
 こちらには目もくれないが、虎太郎さんが言ってたのは本当だったのか。
「近頃じゃこの辺も、深夜になるとすっかり人がいなくなっちゃうし。フィールドワークに勤しむ身としては、少しばかり物足りない気がするわ」
「きみは一体何を野外調査しているんだ……」
「恋人同士の、人目を忍んだキスの回数」
「窃視かよ!」
「キャパシティは荒稼ぎしたから、今度はハンターにジョブチェンジしようかしら」
「恋人をハントする気か!?」
「あたしはカップル文化を食いつぶす」
「欧米の文化にどんな恨みがあるんだ!?」
 やっぱり屈折してやがる。
 他人の幸せが許せない、みたいな。
「霧崎さんは悪行超人だと思います」
「悪行超人とは無礼千万もいいところね。あたしほどの正義超人、そうそういないわよ」
 まあ、女超人は二人しかいないからな。
 そこにお前が混ざったら、さぞかしシュールな絵になるだろうぜ。
「一体何が目的でそのふざけた缶バッジを収集しているのかもう一度ぼくに教えろ」
「目当てのバッジが当たらないような救われない子供に愛の手を差し伸べるためだけど?」
「慈悲深くなってる!」
「あたしが子供の頃は、清く正しい心を持った大人の女性とは白い恋人のようなものだと、いつもいつも思っていたものよ」
「地方物店で売買されるくらい安っぽい大人がかよ」
「それだけ清廉潔白って意味よ」
「清廉潔白って……」
「現世くん、まさか不謹慎なことを考えたんじゃないでしょうね」
「考えてねえよ!」
 クソッ、でも実を言うと考えてました!
 そしてつい胸の辺りに目がいっていた! うう、恥ずかしい! だけど霧崎さんって見た目よりずっといい身体してるんだよな。線の細い体躯とのギャップがまた……じゃねえっ! なんだよ! なんなんだよ! これがぼくの本性だと言うのか!? ぼくは、清廉潔白の四字熟語から女性の胸しか連想できないような、溢れんばかりの性欲にまみれた人間だったのか……。
「まあ、全部嘘だけどね」
「……どうしてそんな嘘を」
「それはもちろん、雰囲気作りのためよ」
「雰囲気作り?」
「あたしと現世くんが仲良くなる、雰囲気作り」
「…………」
「胸揉む?」
「もう脈絡も何もないな!」
「で。どうなの? 揉むの?」
「道端でなんか揉むか!」
「え、じゃあ、家に着いてから揉むの?」
「そういう意味じゃねえ!」
「女の人の胸を揉んだときの感触はマシュマロみたいってよく言うけれど、他に表現のしようがないのかしらね」
「……つまりそれだけ張りがあってやわらかいってことだろ」
「なんかその意見だけ聞くと、胸の評論家みたいね」
 言い返せない。
 反論も否定もできなかったが、そんな卑猥な評論家が世の中に実在しないことを、ぼくは切に願うばかりだった。
「なら……そうね、猫の肉球とか」
「そのまんまじゃねえかよ」
 また随分といい加減だな……。
 こんなどうでもいい話でいちいちマジにもなりたくないが……。
「雰囲気作りはわかったから。さっきの話の続きを簡潔に五文字以内で述べてくれ」
「短すぎ」
 速攻、見事に五文字で答えられた。
 まあ、話はぜんぜん進んでないわけだが。
「わかった。んじゃ、五文字を超えてもいいから。ちゃんと説明してくれ……」
「そうね。物騒って言うのは世間一般のゴシップで、変な都市伝説が広まってるのよ、二週間くらい前から」
 都市伝説。
 都市伝説――ね。
「へえ。このご時世に怪談話なんて、なかなかオカルチックじゃないか」
 ぼくは言った。
「その都市伝説って、有名なの?」
「でしょうね。だから人もいないんだし」
「まあ、そうだな。どんな内容なんだ、それって」
「うーん。あたしも中学の頃の友達から小耳に挟んだ程度だからよくわからないのだけれど、なんでも持ち上げたらしいのよ」
「持ち上げたって、何を」
「車」
「はい?」
 思わず間の抜けた声を出してしまった。
 えっと、車って……あの車か?
「なにそれ、びっくり人間じゃん」
「いいから最後まで聞きなさいよ。それに、あたし。持ち上げたのが人間だなんて言ってないじゃない。実際、現場は暗くてよく見えなかったらしいのよ。だから謎のままになっているのだけれど、その人影、持ち上げた車をビルに放り投げたって」
 ぼくは呆然となった。
 今、霧崎さんは、投擲とかそういう意味で放り投げたと言ったのか? ちょっと待て、だって、それは……いや、無理だ。普通の人間が見よう見まねでできる物理的腕芸じゃない。
「車体、後部座席までビル壁に突き刺さってたみたいだし――ランドマークタワーの近くは警察に封鎖されているから、大穴、オフィス街の北東に行けばまだ見れると思うわよ?」
「その、霧崎さん。突っ込みどころがあり過ぎて、ぼくのスペックじゃ処理しきれないのですが……」
「なんで丁寧語なのよ。ていうか、まだ終わりじゃないわよ。これだけなら、オフィス街だけに限った話になるでしょ」
 ぴ、と三本指を立てて、霧崎さんは続ける。
「都市伝説は三つあるのよ。残りの二つは猟奇殺人事件でね、カニバリズム少女と――死神隠し。ちなみにさっきのはフランケンシュタイナーって言うのがネット内での非公式な事件名。街灯の下で女の子が人間の手足を食べていたり、女子中学生が鎌を持った長身の男に連れ去られたりと、どちらかと言えばこっちのほうが有名よ」
「……なんで有名なんですか?」
「簡単よ」
 霧崎さんは言った。
 ぼくの顔に自分の顔を寄せて。
「残りの二つは、この住宅街で頻発してるから」
 ぼくは――ふと、思い出した。
 この住宅街、違和感を覚えるほどに人気が途絶えていた。理屈だけなら、日が暮れた頃には周囲が真っ暗になるから、とか、そんな風にこじつければいくらでも説明できるけど、それでも夜の六時過ぎである。深夜でもない、稜線に陽が落ちて間もない中途半端なあの時刻に通行人とすれ違うということが数えて一度きりしかなかったのは、ともすれば異常と言っていいくらいの珍事ではないのだろうか。
 ぼくは、そっと、辺りを見渡す。
 人が。
 人が――どこを探しても見当たらない。
 静かなものである。
 借家に入居したばかりの人間とはおおよそ無縁に近い大きな家は、どれも静然としており、住居者の気配というものを感じさせない。
 吹き抜ける空虚な風は、生物の吐息を吐きかけられているような、気味の悪い生暖かさがあった。
 ひょっとしたら、ひょっとせずとも冗談ではなく――
 ここは、もう境界線の内側。
 なのか。


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