迷い人/霧崎赤音(4)停滞
結論から言って、遅刻した。
謎が謎のままに――いや、謎を謎のままにか。あれから学校に向けて歩みを進めたぼくだったけれど、漠然とした、言ってしまえば幽霊にでも行き遭ったような有耶無耶に散々悩まされ、気が付く頃には、すっかり始業式をすっぽかしていた。入ったばかりの高校を中退した気分だった。
結局、ぼくはあれを保留にした。虎太郎さんが呼吸をしていなかったのはぼくの思い違いだったかもしれないし、あの人の後姿が車体に映っていなかったのだって、ぼくの見間違えだったかもしれない。何が言いたいのかというと、つまりそういうことだ。
昇降口に張りだされていたクラス分けの表をチェックし、出遅れ気味に靴を履き替える。新入生のぼくには、校舎の位置関係はまだ手探りに近い。幸い学校に着く前に雨はなりを潜めていたので、取り出した学生手帳を開き、周りの建物と照らし合わせながら定時制一年の教室がある西棟に向う。どうせ、もう始業式は終っているだろう。
「わざわざ体育館に寄って遠回りする必要もない、か……」
そんなことを思いながら裏庭に出たのだが、ぼくの視界に飛び込んできたのは、まさしく超絶的な光景だった。
制服姿の女子高生。
朽葉学園の制服を着た女子高生。缶バッジがたくさん付いたニット帽を頭に被っていて、セミロングの大半を隠している。それなりに清楚な顔立ちの彼女、たぶん同学年の女の子だ。なんでも新入生のスカーフの色は赤だとかなんだとかで――だ。
目立った特徴、病的なまでに白い肌の色と右耳の赤い耳飾り。
さて、どうして、ぼくが一目瞭然に容姿を把握できたのかというと、もちろん向かい合う格好でばったりと出会ったからだけど、そんな形になったのは彼女が三人の男子生徒に包囲されていたからだ。ちょっぴり野蛮で、どことなく頭が悪そうな――どう見ても不良です。ちなみにこちらも同級生。
「いいじゃん、遊ぼうぜ。そうだ、名前教えてくれよ」
「ねえ、聞いてる? もう日も暮れたしさー、ガッコーなんてばっくれてどっか店入ろうよ。寒いだろ? ん、ミスド? ミスドがいい?」
…………、と。そんな感じで硬直するぼく。あ、あー……。はい、はいそうですね。これは、デート? いや、密会? いやいや、ナンパ? そうだ、ナンパだ。
定時制だからこういうのがいるとは思っていたけど、エキセントリックっていうか、なんかベタベタだな……。
「――うるっさいな。どこにでも勝手に行きなさいよ。あたし、急いでるの。遅刻してるから。あと、二人続けて喋んな」
彼女は「こほ」と軽く咳をして、少年達をきつく睨み付ける。近寄るな、という意思表示だった。
どうやら、ぼくは取り付く島もなく傍観者の立場に回されたらしい。願わくばこの視殺戦の中に割り込み男気溢れる台詞で不良少年共を説き伏せてやりたいものだけど、ぼくにそんな義務はないし、主人公たる素質もない。
「怖いねえ。でも、怒った顔も可愛いよ。まあそう言わずにさ。どうせ男もいないんでしょ?」
はは、とか笑いながら気を取り直すリーダー格の少年。彼の目配せに、近くにいた少年の一人が、彼女の手首を握るようにして、ぐい、と引っ張った。
ニットキャップの彼女は露骨に嫌悪感を剥き出しにしたが振りほどかない。振りほどけない。そうするだけの握力が、ない。
唐突に、彼女が少年達の背後に立っているぼくを見た。今初めて、その存在に気付いたようだった。
彼女は期待しているのだろうか。
そもそも、期待したのだろうか。
現代社会においてまったくもって不必要な存在である、このぼくに。
だとしたらそれは――
お門違いにもほどがある。
どうしようもなく。
笑えない。
滑稽だ。
本当に。
「他の誰かに奪われるくらいなら先に奪って自分の所有物(もの)にする」
彼女は。
不意打ちのようにいきなり、冷めた口調で言った。
「この台詞って、超絶格好いいと思わない?」
そして――
続けて、す、と人差し指を持ち上げ、威風堂々と宣言する。
「――あれの台詞よ」
彼女の指差す方向に――
ぼくがいた。
ふむ……。
振り向く。
背後には、誰もいない。
「…………いや」
待て待て待て。
なんなんだこれ。変な方向に話が行ってないか。
しかも、あろうことか、ぼくのことはあれ呼ばわりだった。
「あー面白い。ねえ、悔しい? 悔しいわよね? だって、あんた達今すっごく馬鹿みたいな顔してるもの。運がいいとか躍起になっちゃって、最後の最後でこのしっぺ返しだものね。同情するわ。帰ったらドーナッツでも貪りながら涙で枕濡らして寝なさい。そんじゃ、まあ」
サヨナラバサラ砂漠、とか意味不明な捨て台詞を残し、強引に手を振り払う彼女。この妙な展開を処理しようとしても、不良少年達は身体のほうが追いついてこないのだろう。素っ頓狂な声を上げ、愕然と立ち尽くしている。ぼくと同じだ。
そのまま方向転換をして駆け出す――のかと思いきや、律儀にも彼女はぼくの方まで歩いてきて、正面で立ち止まると隣に回った。これがまた近くで見ると結構ぼくの好みだったりするのだが、ただ今のアプローチがちょっと変化球過ぎてバットが届きそうにないしストライクゾーンを外れてしまっている。
「お願いします」
彼女は声の調子をぼくにしか聞き取れないくらいに落とし、そっと耳元で囁いた。
「この場だけでいいから話を合わせて」
「…………」
「あいつらには、入学式から目をつけられてるの」
そうだったのか。
いや、ぼくが知るはずもないが、彼女がそうと言うのだから――まあ、そうなのだろう。もう考えるのも面倒だし、それでいいや。で。彼女、いかにもぼくと関係がある風に装ってこの場をやり過ごし、あわよくば彼らには自分を諦めてもらう、って算段なわけか。
「断る」
「え、即答!?」
「新入早々暴行事件を誘発するのもどうかと思いますけどね、ぼくは由緒正しい私立高校の歴史にんな学園黙示録的な伝説、刻みたくないんですよ」
ぼくは彼女に耳打ちする。どうせ張り倒す前に一撃で返り討ちにあうのがオチだ。打開策? ねえよ。
告白しよう――ぼくは喧嘩で一度も妹に勝ったことがない。
だから彼女はあそこで逃げるべきだった。そんな言葉は、ここで吐くべきじゃなかった。
「まあ、気が済むまでその胸を揉ませてくれるってんなら付き合ってやってもいいですけどね」
ぼくは軽く鼻を鳴らす。傍らから見れば物凄く卑劣な奴だったに違いないが、もうこの際どうでもよかった。
ただ、この台詞だけはスマートに言わなければ、空回りどころかただの変態になると思ったのだ。
「わかった」
しかし、突き飛ばすようなぼくの言葉に、彼女は葛藤すらしなかった。
覚悟を決めたように言って、ぼくに寄り添う。
そして二の腕を絡める。
右腕の辺りで、衣服越しに伝わる体温と、柔らかいものが押し潰されている感触。
一呼吸掛かって、やっとぼくは自分の腕に彼女が胸を当てているのだと気付いた。
「えーっと……」
まともに言葉が出ない。
「……あの、当たってるんですけど」
「当たってる? その表現は適当じゃないわね」
間髪入れず、彼女はお決まりの台詞を言う。
「当ててんのよ」
「…………」
とりあえず報告しておきたい。
彼女はとんでもなく着痩せするタイプで、それはさながら、相手が身体を密着させなければ決して分からない、宇宙規模の奇跡だった。
だからどうしたって話だが、着痩せしても着痩せしなくても、どちらにしたって彼女の胸はとても魅力的だった。魅惑的だった。でも、今更ながらの躊躇も大きい。
同級生に、セクシャルな欲情を抱いているとか。
「か、勘違いしないでよね。あくまでこれは前払いなんだから」
「…………!」
それはお決まりの台詞じゃない!
なんてことだ。
ぼくは彼女を誤解していた。
しかも、それは一方的な誤解だった。今の悪逆無道な要求に彼女は嫌がる素振りも見せなかった。つまり、ただ純粋に。あの条件を受け入れたのだ。だから、それだけ、この少女は……。
純真無垢なのだろう。
ああ。
ぼくの気安げな十五年間なんて、この一瞬、このワンシーンのためにあったようなものじゃないか。
「……前言を撤回させてください」
ぼくは彼女に小声で話し掛けた。
言うまでもなく謝るためにだが、その場で土下座して足元に出来ている水溜りから水分補給をするくらいのことは、やって当然の報いだった。
これは辺りに月明かりが届かないからでも、ましてや現時刻が夜の七時を過ぎているからでもない。このテンションなら、校長先生を横殴りにし、全校朝会を乗っ取って、全校生徒に奇異の眼差しを向けられながらでも謝罪できる。
「ぼくには、きみのぶんまで選択権を握る勇気なんて、ない。でも、ぼくは今日から地獄の底まできみに着いて行く。奴隷にでも何でもなります。きみのためなら、ぼくは死ねる。死んでやる」
ある意味はた迷惑な台詞だった。
構わずぼくは続ける。
「ぼくは暴力が嫌いだ。負けが分かっている喧嘩もしたくない。だから命令してくれ。馬鹿と鋏は使いようって言うだろ? 馬鹿はぼくなんだよ。だから使ってくれ。きみがこの場をやり過ごす選択をした通り、ぼくには即物的な攻撃力も腕っ節の強さもない。だけど――」
そう。最初から、口に出さなくても、分かっている。
今のぼくには、ぼく自身を守るくらいの余裕しか、本当はないはずなんだ。
「――そんなの、信じる心でカバーしてやる。いつまでも逃げてるだけじゃ、この問題は解決しない。だから、ここは戦うべきだ。抵抗するべきなんだ。何度でも何回でも、ぼくは立ち向う。きみの胸に誓って、ぼくは絶対に勝利してみせる」
声に出して忠誠を誓い、ぼくは初めて実感した。
なんか、ぼくの方が所有物みたいな言い分だけど。
これが愛戦士、ってやつなのだろう。たぶん。
「うん……」
ドン引きされていた。
ちょっぴり落ち込んだ。自分が何を言っているのかわからなかったし、もう色々な意味で駄目だとは思ったけど、これじゃあ、愛戦士どころか本当に哀戦士……。
宇宙に散る、って感じだ。
「なんか、うん……そんな学園異能活劇の主人公みたいな台詞を軽々と人前で口に出せる人がこの世にいただなんて、ちょっと驚いちゃった」
「…………」
凶斬り(まがざり) 。
手に構えた暗黒剣で『凶』の字を敵の身体に描く技。相手は死ぬ。
「……仕切りなおす」
傘を握る手に、力を込める。
いや、これと言って意味はないが。
「相良です。相良現世。『あいら』は良い相棒を逆さ綴りにして『相良』、そして現代世界の『現』と『世』で『うつせ』です」
「……は? 偽名?」
「相良です。相良現世。『あいら』は良い相棒を逆さ綴りにして『相良』、そして現代世界の『現』と『世』で『うつせ』です」
同じ名乗りを二度繰り返した。
それだけ大事な名前なのだ。
ぼくが三つ持っている名前のうちの一つ、これは、ペンネームだ。
いつしか彼女は、戸惑いから神妙な面持ちで、黙考に耽っていた。警戒心を強めたのか、語呂の意味合いを真剣に考えているのか、ぼくには見当すら付かなかったが、しかし、やがて、彼女は無遠慮に口を開いた。
「……四組の霧崎赤音です」
おお、名乗り返してきた。
どうやら彼女は霧崎赤音さんという名前らしい。しかも同じクラス。
「趣味は在庫が少ない缶バッジの乱獲です。活動理念は幸多く無知な子供を泣かせたい――」
最終的にそこで落ち着くように、霧崎さんは言った。
「――十六歳の処女です」
それは自己申告するな!
缶バッジの収集もそうだが……もしかして霧崎赤音は非常に屈折した内面を隠し持っている人間なのでは……それか常識を逸したおっちょこちょいスキルを持ち合わせているか。
「……っ」
突然、霧崎さんが乾いた息を飲み、ぼくの右腕を握る力が強くなる。視線をやると、リーダー格の少年がかぶりを振り、残りの二人がようやく動き出したようだった。じりじりと、彼らはぼくたちに近付いてくる。
おしゃべりの時間は、いつしか終っていたらしい。
できることなら言葉での解決が一番なんだろうけど――なあ。
「ちょっと――貸して!」
おもむろに右手のビニール袋を引かれた。駅前のパン屋とコンビニで調達した夜食が混入しているビニール袋だ。何かと思っていると、ごそごそと探り始める。中身を漁っているらしい。
ややあって、霧崎さんは引き抜いた。
武器を。
あまりにも場違いな――その武器を。
「…………」
コッペパン。
コッペパンで武装し不良と戦おうとする少女――コッペ戦士爆誕。
決め台詞は『お前は今まで食べてきたパンの枚数を覚えているか?』くらいが妥当か。だがしかし、やるのか?
その暗黒剣で。
凶斬りを!
「なんでパンなんか入ってんのよ!」
「夜食です」
「そんなことを訊いているんじゃないわよ! もっと、こう、エッチな雑誌とか入ってないの!? 出しなさいよ! 丸めて武器にするから!」
「……霧崎さん、これ、握ってて」
ぼくは攻撃力の断片もない武器を没収し、左手の傘を差し出す。
霧崎赤音は馬鹿なのだろうか。
「やあ、こんにちは」
鼻につくような軽薄さで、リーダー格の少年が言った。
ぼくたちは、三方向から、デルタ型に取り囲まれている。
もう、逃げられない。
「こんにちは? こんばんはですよ、この時間帯は」
ぼくは平然と受け流し、霧崎さんをかばうようにする。
「あはは、そうだね。辺りはすっかり真っ暗だ。誰も見当たらないし、誰もいない。誰もいないから、君が気にしなくちゃいけないことはそれじゃないでしょ?」
「そうですね。どうです? このパン一個で、どうにか手を打ってくれませんかね?」
「……テメエ、ふざけてんじゃねえぞ」
少年の声色が、少し変わった。
そしてすぐに、取り繕うような乾いた笑顔に戻る。
「君がどこの誰かは知れないけど、さ。無個性無機質の駄目人間君、その子は僕達と用事があるんだよ。なのに君ってばそれを邪魔して、正義の味方気取りにでもなっちゃってるのかな? ん? だとしたらお笑いだねえ」
なあ、と少年は腰巾着に振り返る。
途端に、笑い声あがった。
「それは――」
「正義の味方? ぼくが正義の味方だって? だったらそれは本当にお笑いだぜ、無個性無機質の駄目人間君達」
何か言いかけた霧崎さんを、ぼくは反射的に遮っていた。
それが、まったく意味のない行為だと知りながら。
「ただの雑魚ですよ、ぼくは。自分の力じゃ何もできない、蟻一匹も殺せない弱者です」
現実に目を向けられない、小さな存在。
これを弱者といわずして何と呼ぶのか。
そして。
そんなふうに口火を切ったくせに、ぼくは負ける。
頬に痣ができるまで顔を殴られ――
内容物を吐き出すまで腹を蹴られ続けた。
全身ボロボロの――生き殺し。半殺し。どちらにせよ、意味に差異はない。
負け試合を語るほど、ぼくは人間が出来ていない。
でも、だけど。
その結果に帰結するまでの経過がどうであれ、彼らは、最終的に霧崎赤音さんを諦めた。諦めて、去って行った。興醒めだ、と捨て台詞を残して。
ぼくが勝利したのか、それとも敗北したのかは、正直どうでもよかった。痛みや苦痛の代償に比べれば、得たものの方が何十倍も大きい。
そう。
霧崎赤音さんは、ぼくの友達第一号になった。これが、今回の負け試合の報酬。
なんだか、今日は人助けばかりだったけど。
それでも、不思議と悪い気はしなかった。