第三話


 ある街の、大通りから一本入った路地に、隠れた店があるらしい――。
 扉に小さく文字が彫ってあるだけのその店には、誰もが二度、訪れるという。

 店の名は、「AISKHYLOS(アイスキュロス)」。

 アイスキュロスは謎だった。人々は誰もが二度訪れるというのに、店を覚えている者はなく、目立つはずの扉は盲点に収まっているのか、見ることができない。
 だがそれでもアイスキュロスは確かにそこに存在し、今日も誰かが訪れていた。

 アイスキュロスの店の壁や床を埋める数多の本は、哲学書や自伝が多かった。名のとおり、アイスキュロスの本は膨大にあった。
 ある時、少年は気づいた。
(まいにち、本の数が増えてる……)
 アイスキュロスは人のいない店だった。減らない蝋燭が揺れるだけのこの店に人かげは常にお客側しかなく、店主の声は響くだけだ。本を買う人はいないし、少年以外に誰かが来ていることもない。アイスキュロスは本当に謎だった。

「なにをそんなに考えているのですか?」
「アイスキュロスは不思議だなぁって」
「ほう……? ……なぜそう思うのです?」
「お店なのにお店らしくなくて、人もいなくて……ここ、なにを売るお店なの?」
「……***はなにを売るのだと思いますか? 先日、わかったと言っていたでしょう?」

 少年はまた自分を呼ばれた気がしたが、それを聞き取ることはできないままだった。

「……多分……ここは、人の――」

 少年は、特別な存在に近づこうとしていた。




 少年は、誰より愛されてる子だと言われ、育った。だが少年自身にそんな気はなく、ありふれた普通の人間だと思って少年は育った。

 だがこの少年は、いつか気が付くことになる。

 自分が、一世に一人の、特別な存在であることを。


「ほら、ここが新しい街よ」
「すごい……綺麗!」

 何年も前、ひとつの家族が、ある街へと引っ越した。その街は国で一番大きく、歴史のある街だった。小さな田舎の町から引っ越してきた少年にとってその世界は未知に溢れ、少年の心を掻き立てた。
 少年は毎日街を歩いた。
 見るもの全てが新しく、微かに寂れたレンガも剥げたペンキも、みな初めて見るものだった。新しく通い始めた学校の友達に、いつも違う店を見せてもらった。
 この国では引っ越すということが珍しかったから、学校でみんなに田舎のことを話すと、みんなは代わりに街を案内したのだった。
 行く店行く店で大きな瞳を輝かせ、純粋に感嘆する少年に店の人はいつもなにかをくれた。田舎では田畑があまりにも広大すぎるため隣の家などなく、まれに市場で会う同業者はみな敵であったから、少年は街に住むたくさんの人たちと話すたび、人の好意を知った。

 少年の一家が街で暮らし始めた経緯はこうだった。
 街で暮らすものが農業をしたいと国に伝え、国は大規模な計画を実行しようとした。田舎の農業者から大金で土地を買い取り、街で暮らす家を与え、その広大な土地を国営農場として国民に貸し出した。
 少年の家は、その計画の第一歩なのである。

 だから少年は多くの人に感謝された。多くの農業者は国に土地を売ることを渋り、国は土地を確保できないまま二年の歳月を流していた。少年の家族が決断しなければ、国は国民の希望を聞けなかったことになる。
 長い歴史は国民の意見を取り入れることで続いていたようなものだから、国はなんとしても国民の望むものをそろえたかったのだ。
 少年とその家族は始めこそ田舎と街の違いに戸惑ったが、周囲の多くの人が彼らを支え、彼らはすぐに街に溶け込んでいった。

 しかし、平和がそう長く続いたわけではなかった。
 少年が行方不明になったのだ。

 毎日毎日、街中を回っていた少年は、街全体の人が知っていた。明るく素直なその子は、いなくなるとすぐに事が判明した。学校でも服屋でも本屋でも肉屋でも彼を見つけることは出来なかった。
 長い歴史の中で戦争もなく、大きな事件に会うことも無く犯罪も無かった国が、名ばかりになっていた国家警察を動かした時だった。学校も服屋も本屋も肉屋もみなが彼を探し、家族はただ涙した。
 しかし、家族がいくら泣こうが、国がいくら探そうが彼が見つかることはなかった。

 少年は少しずつ、みなの記憶からも消えていった。


 暗いところで少年は目が覚めた。随分長い夢を見ていたようだった。
 あの日、少年が消え、多くの人が涙したあの時、少年は死んだわけでも消えてしまったわけでもなかった。少年はただ、話を聞いていたのだ。
 日が入らない暗い建物。明かりはひとつの蝋燭。幾多の数の本。中央に丸いテーブルと椅子。
 少年は”アイスキュロス”にいたのである。
 少年はある日、奇妙な店を見つけた。その店は、大通りに構えている筈なのに、店の戸は路地に面し、まるで人を拒むかのように隠れているのだった。

「アイスキュロス?」

 戸に小さく刻まれただけの名前を呟いてから、少年は店の戸を開けた。
 本屋かと思うくらいの本がその小さな空間を埋めていた。初めて本屋で本を見てからそれの虜だった少年は、足元の一冊を拾う。が、あまりに重いそれは簡単には持ち上げられず、少年はどうにかその本を開いた。そして、少年はすぐに、その本に違和感を感じた。
 体裁はひどく古く、朽ちて終いそうだというのに、中のページはまるで新しかった。汚れはもちろん、折れた跡もなく、埃っぽい空間にあったのに、塵すら付いていない。ずっしりと重いそれがおかしいのは紙だけではなかった。しっかりと製本されているのに、半分を過ぎたところからはページがまったくの白紙であった。

「……『別れを言えない人の別れ話』、『親を恨む子の話』、『理解されたい人間の理解話』、『幸せな不幸の連鎖』、『終わらない恋人の物語』、『決められない男の決断話』、『子を殺した親の話』、『殺人記録に値して』」

 少年は一枚一枚ページを捲りながら、題だけを読み上げる。すっかり本の虫になった彼が知らない物ばかりだった。それぞれの話の作者は、どうやら登場人物である人のようで、みな聞いたことない名前だった。

「荻野雄太、ロビン=T=プリファ、仁科ハルキ、メアリー・ブラウン、李 鈴風、結城飛鳥……?
 こんな人、聞いたことない。全部初めて読む……」

 そこに連なる物語は全て少年が読める言語だったが、作者の国籍はバラバラのようだった。

「あぁ、客か……、気が付かなかった――すまない」

 蝋燭が一度大きく揺れ、それと同時に、低く、抑揚のない声が響く。

「少年……その本に、なにが読める?」

 男の声は上からか横からか、少年に届く。少年は驚きながらも、もう一度ページを捲りながら、題だけを拾った。すぐに男の感嘆の吐息だけが聞こえ、少年はいぶかしむように眉を潜めた。

「諦めていた――。君を、待ってた」

 すぅ、と、音はしないが、何もない空間に姿が映された。目の前の椅子に腰掛け、カップに口付ける姿で現れたのは、細身ながらしっかりとした肉体を持った青年だった。立ち上がり、少年がやっとの思いで持ち上げた本をいとも簡単に軽く片手で奪うと、ページをめくりながら言った。

「これを読んだか、少年」
「え、うん。あの、いっこだけ」」
「別れを言えない人の別れ話か?」
「うん」
「そうか……」

 白紙のページまで差し掛かると、男はそこを開いて少年に見せた。

「この本がここで終わってるのはなぜだと思う?」
「え? え、んと……まだまだ続くから?」
「そう、正解だ。この本はまだ続く。人間がいる限りな。少年、この本を読んで疑問に思ったことは?」
「えっと……その本、どうして全部書いてる人が違うの?」
「それは解らなかったのか?」

 男の言葉に、少年は疑問符を浮かべる。解るもなにも、少年がその本を読んだのは今日が初めてなのである。

「……作者名が登場人物なのは?」
「それはわかったよ」
「じゃあ、そういうことだ」

 青年は多くは言わず、少年がわかるのを待つとでも言うかのように間を置いた。

「……もしかして、全部ほんとにあったことなの?」
「正解だ」

 青年が始めて優しく笑った。そして、彼の名前を口にした。

「どうして僕の名前知ってるの?」
「知ってるさ。俺の次は君だと知っていた。本当に来るとは思ってなかったが」

 そして、青年は少年を椅子に掛けさせ、語った。

 AISKHYLOSは古代に生きていた悲劇作家から取られた名前で、発足当時は九十篇の話を集めることが目標だったという。だが、たった九十篇では本二冊にもならず、守人は考えた。より多く、多くの話を集めようと。
 代々アイスキュロスの店を受け継ぐ者は守人と呼ばれ、世代はおよそ百五十年で代わる。人間の寿命なぞでは足りないが、守人になった時点でそのものは永遠に生きるという。次の世代が五十年かけて育てられ、その者がアイスキュロスを百五十年引き継ぐ。百年目で表れる次の世代を探し、その者を五十年かけて育てる、が延々と繰り返されていたというのだ。

「じゃあ」
「お前が次の守人だ、***」

 また少年の名を呼ばれたが、少年はそれを聞き取れない。

「どうして? 僕は普通だよ、貴族じゃないし、この前まで農民だったけど、農民は下流階級でもないよ」
「どうして? わかってるだろう、最近、農民であったはずのお前が農民でなくなることが」
「……あ」
「覚えがあるだろう、少年。お前は家族に連れられ、ほぼ強制的にこの街へ来たはずだ」
「来たよ、来たけど、あれは国の人が」
「物分りが悪いな」

 数百年前から、次がお前なのは決まっていた。青年は少年をしっかりと見据え、はっきりとそう言った。


 出会いから四十五年が経っていた。少年はあの日から青年に育てられ、受け継ぎまでの時間はあと五年に迫っていた。少年はもう青年と同じほどの年齢となり、そこで成長は止まっていた。
 少年が消えた事件はもう完全に忘れ去られ、最後まで少年を覚えていた両親はすでに死んだ。少年はもう少年として生きるのではなく、アイスキュロスの守人として生きていくのである。

「未だに、解らないことがあります」
「……なんだ?」
「アイスキュロスが、なぜここまで……五十年もかけて人を育ててまで、話を集めるかです」
「あぁ……。***、お前、もう四十五年目だったな」
「え? はい、あと五年です」
「ここまで来たらもういいな。お前はもう守人になるしかない」
「……はい」
「……お前は、どう思う?」
「わからないです」
「じゃあ、アイスキュロスが話を集めた後、どうしてると思う?」

 少年は首を傾げた。話を集めてるだけでなく、その後になにかしていただろうか、と疑問がよぎる。

「アイスキュロスには、誰でも二度訪れる。例外はお前や俺みたいな守人になるものだけだ。俺たちは二度ではなく、一生ここにいる」
「はい」
「二度も来るのに、ここを覚えてるやつはいない」
「……はい」
「なぜだかは解らないか?」
「はい」
「なぜいないか? 忘れるんじゃない、死んでるからさ」
「え?」




「――人の?」
「……人生、を」
「……そうです。よくわかりましたねぇ」
「い、今」
「解りましたか? 直接言うのは性分に合わないので頭に直接語りかけてみました……始めてでしたが、成功するものですねぇ」

 アイスキュロスは謎だった。人々は誰もが二度訪れるというのに、店を覚えている者はなく、目立つはずの扉は盲点に収まっているのか、見ることができない。
 だがそれでもアイスキュロスは確かにそこに存在し、今日も誰かが訪れていた。

「次の守人は、あなたです」

 アイスキュロスは変わらず今日も謎だった。そして今日から、次の守人の育成が始まる。アイスキュロスに残る少年はまた、消えた。
 夕暮れを迎えた街は、いつもより騒がしく、消える扉に気が付くものはいない。

「少年――今度は貴方に、なぜ話を集めるのかを解いて貰いましょうか」


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匿名読者
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